【石垣山一夜城 その3】

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石垣山に参陣した武将達 …押すと説明にジャンプします…
豊臣 秀吉 淀 殿 羽柴 秀次 徳川 家康 宇喜田 秀家 伊達 政宗 堀 秀政 千 利休 小田原合戦攻防
  豊臣秀吉 / 天文6年(1537)〜慶長3年(1598)                             上へモドル
織田信長に仕えて活躍。信長の後継者となり天下統一を進めた。 四国・九州を平定した後、東国の攻略に乗り出した。 容易に従わない北条氏を討ち滅ぼすべく、諸大名に命じ大軍を率いて 関東に攻め入った。石垣山(国指定史跡)に城を築いて本陣とし、 小田原城を攻め、北条氏を滅ぼして関東を平定した。 この城を「太閤の一夜城」といい、秀吉が一夜にして築いたと言われているが、 実際には約80日を費やしている。小田原合戦によって、東北の諸勢力も従い、 全国平定を成し遂げた。
  淀 殿 / ?〜元和元年(1615)…生年を永禄10年(1567)の説あり                 上へモドル
近江小谷城主浅井長政の娘、幼名お茶々。母は織田信長の妹お市の方。 信長の死後、重臣柴田勝家と再婚した母と共に越前北庄に移った。 勝家が豊臣秀吉に破れると、秀吉のもとに移り、やがて側室となり長子 鶴松を身ごもった。 喜んだ秀吉から淀城を与えられ、「淀 殿」と呼ばれた。 小田原合戦に持久戦で臨んだ秀吉は、集まった諸大名の苦労を思いやって 妻達を呼ばせ、自身も淀殿を呼び寄せた。石垣山城井戸曲輪の井戸は 「淀殿化粧の井戸」と伝えられている。
秀吉の死後は、遺児 秀頼の 生母として大坂城にあったが、大坂の陣に破れ落城とともにその生涯を閉じた。
  羽柴(豊臣) 秀次 / 永禄11年(1568)〜文禄4年(1595)                       上へモドル
豊臣秀吉の姉の子で、近江八幡山43万石の城主。 小田原合戦では先陣として山中城を攻め落とし、韮山城、さらに小田原城の 包囲に加わった。秀次の陣場は、小田原城の北西、辻村植物公園の 東部付近に位置したと伝えられ、この時秀次が使用した陣鐘が久野の 総世寺に寄進されている(県指定文化財)。秀次はこの後、秀吉の養子となり 関白に就任するが、秀吉に実子秀頼が生まれると次第に関係が悪くなり、 謀反を企てたとして高野山に追放され、切腹を命じられた。
  徳川 家康 / 天文11年(1542)〜元和2年(1616)                           上へモドル
三河岡崎城主松平広忠の子。長い人質生活の後、岡崎城に戻る。 織田信長と同盟して東海、中部一帯に勢力を伸ばした。 娘の督姫を北条氏直に嫁がせ、北条氏とともに豊臣秀吉に対抗したが、 その後秀吉と和睦し、氏直にも秀吉へ従うことを勧めた。小田原攻めが決まると、 大軍を率い先鋒として出陣し、小田原城の北東、酒匂川の西岸に陣をしいた。 秀吉の死後、関ヶ原の戦いに勝ち、征夷大将軍に任じられ江戸に幕府を開いた。 家康の陣場跡には今日も土塁の一部が残り、江戸時代に建てられた石碑 (市指定文化財)や東照宮の建物がある。
  宇喜田 秀家 / 元亀3年(1572)〜明暦元年(1655)                          上へモドル
備前岡山城主宇喜田直家の子。秀吉の養女となった前田利家の娘を妻とし 両家と姻戚関係となり、備前・美作両国と備中東半分の約50万石を治めた。 小田原包囲陣では、小田原城の西方、水之尾付近に陣場を構えたと言われている。 合戦の最中、氏直の弟氏房に酒や肴を贈って籠城の苦労を慰め、 伊豆の江川酒を返礼として贈られ、氏房に講和を勧めたとする物語が伝えられている。
  伊達 正宗 / 永禄10年(1567)〜寛永13年(1636)                           上へモドル
米沢城主伊達輝宗の子、幼名は梵天丸。天正13年以降、佐竹・蘆名らの連合軍と 戦い、仙道七郡を手に入れ、勢力を広げていった。秀吉に従い小田原合戦に 加わるべきか迷い、なかなか参陣しなかった為、その遅れを責められ領地の一部を 没収された。正宗が小田原攻めに加わった事は、その援軍を期待した北条氏にとって 大きな痛手となった。秀吉の死後まもなく家康に近付き、伊達62万石を確定させ、 仙台城を築いた。幼少の頃、右眼を失明し、「独眼竜」と恐れられたが、 自身は独眼にふれることを嫌い、死後に残る肖像には両眼を備えるよう遺言したという。
  堀 秀政 / 天文22年(1553)〜天正18年(1590)                            上へモドル
美濃の豪族堀秀重の子。織田信長に仕え、側近として活躍。信長の 伊賀攻めの年、近江長浜城主となる。秀吉に従い羽柴姓を与えられ、 小牧・長久手の戦いや紀州攻めで活躍した。その功績により、越前・加賀に 18万石の領土を与えられて北庄城に入り、北国支配の中心となった。 小田原合戦では先鋒として出陣し、小田原城の西南、石垣山城の前衛として 陣をしいた。ところが5月27日、小田原包囲陣中で病死し、福井の長慶寺に 葬られた。早川の海蔵寺にも墓がある。
  千 利休 / 大永2年(1522)〜天正19年(1591)                             上へモドル
和泉堺の納屋衆千与兵衛の子。境の町衆の間で流行していた茶の湯にひかれ、 武野紹鴎らに学ぶ。初め与四郎、のち宗易と名乗った。茶人としての 名声を高めて織田信長の茶頭の一人に加えられ、次いで豊臣秀吉に仕えて 利休の名を朝廷から授かるなど、天下の茶匠と言われるほどになった。 小田原合戦でも秀吉に同行し、側近の一人として活躍する一方、 陣中で茶会を催し、諸将の苦労を慰めた。茶道のひとつである 「侘茶」で使用される竹の花生けは、小田原合戦に随行した利休が 茶会の際にその場で作ったことが始まりと言われている。

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小田原合戦攻防   小田原合戦攻防                         上へモドル
天正18年(1590)4月、関東最大の勢力を誇る戦国大名小田原北条氏の本拠地小田原城は、 全国統一を推し進める関白豊臣秀吉率いる諸大名の大軍に包囲される。
■中世最大規模の城、小田原城出現
北条氏の当主氏直は、臣従を迫る豊臣秀吉と交渉を続ける一方、小田原城をはじめ 諸城を強化し、総動員態勢を整える。特に、小田原城に城下の街ごと囲む全長9kmに 及ぶ長大な大外郭を構築し、決戦に備えていた。 結果的に交渉は決裂。氏直は、国境線を固めるとともに小田原城に主力を投入、 さらに領内100ヵ所に及ぶ支城の防備を固めて防衛体制を整えた。
■小田原城を包囲する戦国の英雄達
豊臣方の軍勢は水陸合わせて約22万。徳川家康らを先鋒とする秀吉の本隊は東海道、 前田利家・上杉景勝率いる北国勢が上野国(群馬県)から北条氏の領国に侵攻。 長宗我部元親・九鬼嘉隆らの率いる水軍が兵員・物資を搬送し、海上封鎖に従事した。 大外郭の出現により中世最大の規模を誇った小田原城には、6万とも伝える人々が 籠り豊臣秀吉・徳川家康をはじめ、織田信雄・蒲生氏郷・羽柴(豊臣)秀次・宇喜田秀家・ 池田輝政・堀秀政など、名だたる戦国の英雄を迎え撃ち、3ヶ月余りに及ぶ攻防戦を展開する。
■秀吉、石垣山城築城
小田原城の攻略に当たり、十分な兵糧・資金を用意して長期戦の構えで臨む秀吉は、 壮大な石垣山城を築き、本営を湯本早雲寺(箱根町)から移動。淀殿や参陣諸将の女房衆を 召し寄せ、また千利休らの茶人や芸能者を呼ぶなど長陣の労を慰めた。
■北条氏の降伏
北条方は、各地の諸城に籠って防戦し、機会を見て反撃に転じる作戦であったが、 主力の籠る小田原城を封鎖されたまま各地の支城を撃破され、次第に孤立していった。 同年7月に至り北条氏直は城を出て降伏を申し入れ、自らの命と引き換えに、 籠城した一族・家臣や領民らの助命を願い出る。しかし、秀吉はこれを認めず、 氏直の父氏政とその弟氏照らに切腹、氏直に高野山追放を命じ、ここに戦国大名小田原北条氏は滅亡した。
■そして、戦国時代は終わる
この合戦の過程で、関東ばかりでなく伊達政宗ら東北の諸将も秀吉に臣従する。 この結果、天下統一の事業が達成され、北条氏の滅亡とともに戦国時代も終わりを告げた。

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