【河村城 その2】

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■本城郭にあった長い長〜い説明板です。■

河村城跡

河村城跡が位置するこの地は、城山と呼ばれ、 北を旧皆瀬川、南を酒匂川によって周辺山地と分断された 自然の要害とも言うべき地形となっている。 城山の標高は約225mで、酒匂川との比高差は約130mを測り、 東へ浅間山・丸山と連なる独立丘陵状を成している。 河村城の周辺では、相模・甲斐・駿河三国の境界線が交錯する事から、 数多くの城砦群が築かれている。甲斐から城ヶ尾峠を越えると 湯ノ沢城・中川城・大仏城山・新城・鐘ヶ塚砦が、駿河から箱根山地・ 足柄峠の尾根筋を下ると足柄城・阿弥陀尾砦・浜居場城があり、 更に足柄平野縁辺部には松田城・沼田城等があるが、なかでも河村城は 甲斐・駿河から足柄平野に至る交通の要衝に位置している。

河村城の築城は古く、平安時代末期に秀郷流藤原氏の一族波多野遠義の 二男河村秀高によって築かれたと伝えられている。秀高の子義秀は、 源頼朝の石橋山挙兵の際、平氏方に属した為領地を没収されるが、 建久元年(1190)鎌倉での流鏑馬の妙技により、本領河村郷に 復帰出来たと「吾妻鏡」にある。町指定無形文化財「室生神社流鏑馬」 はこれに由来すると言われている。 建武の中興・南北朝時代と河村氏は松田氏と共に南朝側の新田氏に 協力し活躍するが、北朝側の足利尊氏らによって鎌倉が攻められると、 河村秀国・秀経らは新田義興・脇屋義治とともに河村城に籠城する。 正平7年〜8年(1352〜53)にかけて、畠山国清を主将とする 足利尊氏軍と戦火を交えるが、南原の戦いで敗れ、新田・脇屋らは 中川城を経て甲州に逃れたと「太平記」にある。

当時の河村城については、「管領記」に「山けんにして苔滑らかに人馬に 足の立つべき処もなし」とあるように、難攻不落の堅城であった事が窺える。 又、篭城戦の様子については、河村氏の菩提とされている岸の般若院所蔵の 「梅風記」に詳しい。 南原の戦い後、河村城は畠山国清・関東管領上杉憲実を経て大森氏の持城と なったと考えられ、その後相模に進出してきた小田原北条氏に受け継がれていく。 戦国時代、小田原北条氏は武田氏との攻防から、前記の各城と共に 小田原城の支城として河村城を重視し、特に元亀年間には河村城の補強を 行った事が「相州古文書」に見られる。その後、武田氏との間で 周辺の諸城と共に争奪戦を繰り返し、天正18年(1590)豊臣秀吉の 小田原征伐で落城、廃城になったと考えられるが、これらを伝える資料は 残っていない。

河村城の規模・郭配置については、「新編相模風土記稿」及び 堂山の鈴木友徳氏所蔵絵図に見ることができるが、遺跡の保存状態が 良い為、現地でも概略の位置は確認できる。各郭の名称は、絵図を参考に 付けたものであるが、記載の無いものなどについては、調査・研究などに 使われている名称を便宜上使用している。 河村城は、急な斜面と入り組んだ谷を持つ地形を十分に生かした郭配置が 成されており、大きく三つの尾根を堀切によって郭としている。 現在地を本城郭とし、東の浅間山に連なる尾根に蔵郭・近藤郭・大庭郭・ 同張出部を配しており、絵図によっては張出部の南端を大手としている。 本城郭から北へ伸びる尾根には小郭・茶臼郭を配し、西へ伸びる尾根には 馬出し郭・西郭・北郭・同張出部を配し大久保平へと続いている。 郭の周囲には水郭・帯郭が随所に見られ、本城郭と北郭の間に 馬洗場、小郭と茶臼郭の間にお姫井戸の伝承地があり、湧水があったと 考えられる。

平成2年の本城郭及び堀切2ヶ所の試掘調査では、本城郭から柱穴と思われる ピット6個が検出され、古銭(煕寧元宝)・染付陶磁器などの遺物も 出土している。ピットの覆土にはいずれも焼土・炭化物が含まれており、 根固め用と考えられる河原石が認められた。また、河村城東端の 大庭郭張出部東側の堀切では、幅約20m、深さ約11mの箱薬研状を呈する堀 であること、蔵郭と近藤郭間の堀切は、幅約30m、深さ約15mの河村城最大の 規模である事が確認された。 さらに、平成4年の本城郭から茶臼郭の間の堀切2ヶ所と小郭の発掘調査では、 小郭両側の堀切はいずれも畝堀の形態であり、本城郭側の堀切では 8本、茶臼郭側の堀切では5本の畝が検出された。

また、小郭平坦面は1辺約15mの三角形状を呈し、縁辺には地山を削り出して 低い土塁が設けられており、南・北端には「つぶて石」に利用したと考えられる 拳大ほどの河原石の溜場が検出されている。郭全体には焼土・炭化物の 薄層が覆っており、焼失した可能性があるが、ピットは4個確認できただけで 建物の存在を示唆するまでには至っていない。 又、平成5年の河村城の根小屋とされる岸湯坂地区の土佐屋敷・秀清屋敷伝承地の 試掘調査では、室町時代から戦国時代にかけての館跡と思われる溝が 一部確認されており、当時既に館・詰めの城の関係が成立していた可能性がある。

山北町

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