トロとまったり・tripのページ(高知城 その1)

高知県 高知城

こうちけん こうちじょう

■高知城(天守内=400円)
開館時間=9時〜17時(入館は16時半迄。変更有)
■高知公園=時間に関係なく、入園自由。
駐車場=高知公園駐車場(有料)他、多々あり。

2008/5/2現在

住所=高知市丸ノ内1丁目2-1

高知城

案内板をクリック→拡大。

高知城はもと大高坂城といい、南北朝時代には大高坂松王丸が、ここに砦を築いて南北方に味方して戦った記録がある。 戦国時代の天正16年(1588)、土佐の国主であった長宗我部元親がここに築城して、岡豊城から移ったが、城下が低湿地のため水難に悩まされ、3年ほどで浦戸に移った。 期間が短く、その規模や構造は明らかではない。 現在の高知城は、関ヶ原の戦いの功で、遠州掛川6万石から土佐24万石に封じられた山内一豊が、慶長6年(1601)から築いた城である。 人夫は、毎日1,200人から1,300人を動員し、資材は近隣から集め、瓦は大阪から取り寄せ、一豊は1日おきに浦戸から工事の督励のために、現場に赴いた。 慶長8年(1603)には、本丸と詰門・太鼓櫓が完成し、一豊は同年8月に入城した。 享保12年(1727)には大火にあい、追手門他数棟を残して焼失したが、2年後に再建に着手し、宝暦3年(1753)、24年かけて復旧した。 これが現在の高知城である。天守閣と追手門が揃って残っていることや、全国で唯一本丸内の建造物が、ほぼ完全な形で残っていることなどから、城郭史上極めて貴重な遺構である。 大高坂山は、標高44.4m。天守閣からは市街地のほぼ全容が眺められる。現在は、県立高知公園となっている。(案内板より)

高知公園駐車場
県立文学館
県立図書館

県立文学館の横の駐車場を利用。まず、県立図書館近くの山内一豊の騎馬像を見に行った(^^)

山内一豊

土佐藩初代藩主山内一豊は、天文14年(1545)生まれ。 13歳の時、尾張国(愛知県)岩倉城主・織田伊勢守信安に仕えていた父が戦死し、母や幼い兄弟とともに流浪した。 天正元年(1576)豊臣秀吉に従って織田信長の朝倉・浅井攻めに出陣して武功を上げた。 以後も、秀吉の麾下として各地の戦いに参加し、次第に頭角をあらわして、近江国(滋賀県)長浜2万石の城主から、 天正18年(1590)小田原攻めの後、遠州(静岡県)掛川5万石を領した。 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの功績により、土佐一国24万石を与えられて、 翌6年入国、高知城の築城と並行して城下町を整備し、現在の高知市の基礎を形作った。 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と3代の天下取りの間を生き抜いて、出世したただ1人の武将といえる。 慶長10年(1605)9月20日没。61歳。この銅像は、大正2年(1913)に建設された銅像の原形をもとにして、 平成8年(1996)9月20日に再建除幕された。(案内板より・絵も)

追手筋
野中兼山邸跡&兼山堀
高知城石碑

【真ん中】野中兼山は、藩政初期の家老で、殖産興業に尽力したんだとか。そばの堀が「兼山堀」。

追手門

【左】追手門越しに天守がチラリと見えて格好いい。

追手門は、慶長年間創建、寛文3年(1663)に崩壊し、寛文4年(1664)に再建された。 元禄11年(1698)、追手門は城下から起こった火事により焼失し、その後、再建と修復が繰り返された。 現存の追手門は、享和元年(1801)に再建されたものであり、昭和20年(1945)には、空襲により半壊状態となるが、 昭和20年から26年に行われた解体修理工事により、元の姿に戻された。 当城では、珍しく大きな石を積んだ石垣で、桝形を構成し、内部が見通せないように、右側に建てられた城の正門である。 重層で入母屋造り、その木割りは太く堂々とし、欅を用いた主柱や扉、冠木などには要所に銅製の飾り金具を取り付けている。 その規模が大きく、城門として豪壮優美な趣を備えている。 2階は「御馬廻」の武士の詰所に利用されており、古い帳面の保管所としても使われていたようである。 藩政初期、追手門は「大手御門」と呼ばれていたが、延享4年(1747)以降、「追手御門」と呼ばれるようになった。(案内板より・絵図も)

【左】桝形。【真ん中】桝形側から。【右】内側。

【左】堀側から横を。【真ん中】矢狭間塀。【右】南にのびる堀。横は馬場跡。

【左】追手門の矢狭間塀の石垣には、刻印があるとか。分かんなかったなぁ。
【真ん中】追手門裏側。
【右】城内から。

御庭御門跡
板垣退助の銅像
杉の段へ

【真ん中】「板垣死すとも自由は死せず」の板垣さん。高知城下中島町の上士の家の生まれ。
【右】像の横の石段から杉の段へ。

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