トロとまったり・tripのページ(人吉城 その4)

角櫓(左より角櫓、長塀、多門櫓)

【左】角櫓の左側が球磨川、橋の奥が水の手門跡で、 多門櫓方面が胸川で、大手橋と大手門櫓跡がある。

櫓は矢倉とも書かれたように戦闘用の建物で、角櫓は胸川が球磨川に合流する人吉城北西隅の要所に建てられた櫓である。 元は藩の重臣の相良清兵衛頼兄(せいべえよりもり)の屋敷地であったが、 寛永17年(1640)の「御下(おしも)の乱」で屋敷が焼け、その直後に櫓が建てられている。 幕末になると角櫓は漆蔵として使用され、文久2年(1862)の寅助火事でも焼失せず、 明治初期の廃藩置県後に他の建物のと共に払い下げられて撤去された。 建物は瓦葺の入母屋造りで、梁間3間半(7m)、桁行11間(22m)、 壁は上部が漆喰塗りで下部を板張りとし、内部は廊下があり、3部屋に分かれている。 (平成5年度復元建物)(人吉市教育委員会の案内板より)

【左】城内から。【真ん中】ズームで。【右】球磨川。

軍役蔵跡・買物所跡

角櫓の南に位置するこの場所は、「軍役蔵」と「買物所」の一部にあたる。 発掘調査の結果、両施設を区画すると考えられる南北方向の溝を挟み、 西側の軍役蔵の敷地内には蔵が3棟南北に立ち並び、南端には防火用水と見られる溜枡2基があった。 また、東側の買物所の敷地北西部には蔵が1棟建てられていた。 「軍役蔵」や「買物所」といった藩の施設が具体的にどのようなものであったのか、はっきりしていないが、 これらの蔵の構造は土壁で漆喰塗りの土蔵風建物であったと考えられる。(人吉市教育委員会の案内板より)

【真ん中】角櫓方面に3棟の跡が並ぶ。
【右】手前から買物所跡、奥が軍役蔵跡、右端が角櫓。

長塀

【左】胸川から石落しを。夕日に照らされていたけど、海鼠壁がいい感じ♪ 他の写真は、殆ど反射してしまった(^^;)上方の白いテントは三の丸。

球磨川と胸川に面した石垣上には、要所に櫓が築かれ、櫓や門の間には塀が立てられた。 宝永4年(1707)の大地震で、塀の一部が損壊すると、塀の控石柱を引き抜いて、土台とした厚さ3尺(90cm)の土塀に修復している。 多門櫓の写真に見えるように、長塀は瓦葺き漆喰塗りとし、外側の下部には腰瓦が張られた。 また、塀の一部には石落しの為の突き出し部があった。(人吉市教育委員会の案内板より)

【左】城内から。【真ん中】石落し。【右】角櫓横の長塀手前の石垣。

多門櫓

【左】パノラマっぽく加工。胸川沿いは素敵(^w^)!

(平成5年度復元建物)石塁上に建つ細長い櫓は、一般的に多聞(多門)櫓と呼ばれる。 人吉城の多門櫓は、城の正面口である大手門の脇を固める為に、建てられた長屋風の櫓である。 大手門櫓・角櫓同様、江戸時代前期の1640年代に建てられ、宝永4年(1707)の大地震で、傾いたので修理されている。(人吉市教育委員会の案内板より)
幕末になると「代物蔵(しろものぐら)」として使用され、寅助火事でも焼失せず、廃藩置県後の払い下げで撤去された。 建物は、石塁に合わせて鍵形となっており、梁間2間(4m)、桁行25間(50m)、瓦葺の入母屋造り建物である。 壁は上部を漆喰塗りとして窓をつけ、下部は板張りとしている。(人吉市教育委員会の案内板より)

【左】大手門櫓跡側から。【真ん中】東側から。【右】北西側から。

大手門櫓跡

胸川御門とも呼ばれた大手門は、城の正面入口となる重要な場所であったので、石垣の上に櫓(矢倉)をわたして下に門を設けた。 さらに門前の通路は鍵形にして桝形に作り、また、門の北側には多門櫓を建てて、外濠となる胸川の対岸に大手橋を架けて防御している。 門内には番所を置いて監視させている。大手門櫓は、正保年中(1644〜1648)に建てられ、享保5年(1720)に造り替えられ、明治初期の払い下げで撤去された。 撤去前に撮影された写真を基に描かれた油絵によれば梁間2間半(5m)、桁行12間(24m)の瓦葺切妻型の櫓門で、壁の上部は漆喰塗り、下部は板張りとしている。 大手門櫓と多門櫓の間には、長さ3mの瓦葺の板塀がつく。(人吉市教育委員会の案内板より)

【左】大手橋を渡って。左側が多門櫓。【右】内側から櫓台を。多門櫓方面。

【左】多門櫓方面から内側を。
【真ん中】左の写真の左側の石垣横。 【右】多門櫓の横の大手門櫓の石垣。

大手門下の船着場?

【左】多門櫓横の大手門跡には胸川へ下りる石段がある。船着場かな?
【真ん中】大手門跡から下りて。 【右】胸川。

大手橋

【左】大手門側から。
【真ん中】多門櫓下の川沿いから。南東側にも石垣が♪
【右】真ん中の写真奥の石垣を橋上から(^^)

岩下門跡

岩下門は人吉城に入る4ヶ所の門のうち南側入口にあった門である。 門は西向きで、城内と城外との通路が鍵形になるように作られ、また、南側の石垣上には塀が立ち、 その外側に東西40m、南北13mの溜池(濠)があるなど防御上の工夫が見られる。 当初は瓦葺の薬医門であったと考えられるが、文久2年(1862)の寅助火事で焼失し、その後冠木門に再建されている。 門内には番所(瓦葺・2間×3間)が置かれて、出入の監視を行い、北の麓馬場には万江・宮原・米良氏等の重臣屋敷を配して戦時に備えた。 一方、門外の胸川端には船着場があり、田町橋までの岩下馬場には侍屋敷があり、鉄砲師も居住していた。 なお、人吉城の石垣普請は、寛永16年(1639)に中止されたままであったので、岩下門から大手門際までの胸川右岸には石垣は無く、自然の川岸上に塀が立っていた。 (人吉市教育委員会の案内板より)

【左】切れ目が船着場かな? 【真ん中】手前が岩下門跡かな? 【右】北から。

堀合門(移築)&新宮家屋敷

【右】門の後ろの建物が新宮家屋敷。

この門は、明治初期の廃藩置県で、人吉城の建物が取り壊された際、相良家の一族であった新宮氏が、 拝領、自宅の門としてここに移した。人吉城の御館の水の手側入口にあったもので、堀合門と呼ばれていた。 現存する唯一の人吉城の建造物である。(案内板より)

■西南の役隆盛居宅跡(新宮家屋敷)…西南の役で、西郷隆盛が、熊本に敗れて、 人吉で再起を図るべく、明治10年4月27日、そまつな竹の篭に揺られ、椎葉の山中を移動し続け、 かろうじて最初に落ち着いた所。西郷は徒歩で、一隊の兵が人垣を作って、 人目から隔てられる様にして、永国寺の山門の前を通り過ぎ、 人吉隊の小隊長であった新宮嘉善(がぜん)に案内されて、ここに休息した。 新宮嘉善は、害意が無い事を見せる為、自分も家族も、親戚に移って、西郷に提供したという。 一方、官軍の将となった新宮簡(たけま)は、村山から、我が家であるこの屋敷を砲撃せしめた。(案内板より)

人吉城 2010.5.1記

夕方5時過ぎに到着したはいいけど、まさかの祭り中(^^;) よって、駐車場が殆ど使えない状態(@@)幸い、臨時駐車場にとめられたので、よかった〜! それにしても、想像していたより、石垣が凄い!高さはあるし、長いし、たくさん見ることができる! 珍しい武者返しの石垣、復元された櫓等見所もいっぱい(^w^)ただ、見学範囲が広い! この日、熊本城、八代城で散々歩いたので、キツイキツイ(T_T) しかも、だんにゃのデジカメの電池が、途中で無くなって、1人でいろいろなアングルを写すハメに(^^;) だけど、人吉城を自分のものにする為、頑張った(笑) おかげで、殆どが見ることができた!ちなみに、見学時間は約1時間半弱。
(写真)人吉駅のからくり時計。動く姿は見て無いけど(笑)

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