トロとまったり・tripのページ(八代城 その3)

唐人櫓跡

【左】大天守から。大天守から行けるのかと思ったら、見下ろすだけ(笑) 左側に、九間櫓跡の石垣があり、その間に埋門跡がある。

唐人櫓は、大天守の東側に位置し、東西四間・南北三間を測り、本瓦葺で入母屋造りの屋根を持つ平櫓だった。大天守との間に、長さ三間の塀が続いていた。 また、石垣には合坂(あいさか)と呼ばれる「V」字型の階段が設けられている。 石垣の石材には「大」という文字や記号などが線刻されたものも残されている。(八代市教育委員会の標柱より)

【左】大天守方面。 【真ん中】大天守の石垣と唐人櫓跡。 【右】合坂。

九間櫓跡

【左】唐人櫓跡から。この下が埋門跡で、写真左奥が廊下橋門方面。

九間櫓は本丸の北側中央に位置し、東西九間を測る平櫓である。屋根は本瓦葺の入母屋造りだった。 南側の唐人櫓との間には埋御門平櫓が、東側の三階櫓との間には二十六間にわたって長塀が続いていた。(八代市教育委員会の標柱より)

【左】北側。 【真ん中】礎石? 【右】三階櫓側から二十六間の長塀跡。

三階櫓跡

【左】北東から。

三階櫓は本丸の北東に位置し、東西六間、南北五間を測る三層三階の隅櫓で、大天守に次ぐ高層櫓である。 屋根は本瓦葺の入母屋造りで千鳥破風を持ち、西側の九間櫓との間には長さ二十六間の白塗り籠めの腰高鎧下見板張りの長塀が続いていた。 (八代市教育委員会の標柱より)

【左】本丸東側から。石垣隅が三階櫓跡。
【右】三階櫓跡から、本丸東側の石垣。塀跡かな。

埋門跡

埋門は、本丸から北の丸へ通じる裏桝形門の二の門である。 両側の石垣の上に、梁間二間半・桁行五間の平櫓を渡し、その下部に幅三間半の門を設けている。 門の両側に三個ずつ礎石が残っている。(八代市教育委員会の標柱より)

【左】左が唐人櫓、右が九間櫓の石垣で、その間が埋門跡。
【真ん中】礎石は…?
【右】九間櫓跡から見下ろして。

埋門と廊下橋門の桝形

【左&真ん中】埋門から右折で、廊下橋門へ。九間櫓跡の石垣が高い!
【右】振り返って。廊下橋門側から。

廊下橋門跡

【左】北の丸側から。【右】桝形から。

廊下橋門は、本丸の勝手口に当たる裏桝形門の一の門である。 桝形門とは四方を石垣で囲み、敵の直進を避けると共に、敵の側面及び背面から攻撃するために喰い違う二ヶ所に門を設けたものである。 廊下橋門は両側の石垣の間に東西五間、南北二間半の平櫓を渡し、その下部に門を設けていた。 現在でも、門の礎石が残されている。(八代市教育委員会の標柱より)

【左】廊下橋門の右側の石垣。
【真ん中】左側の石垣。左奥の隅は、三階櫓跡。好きな1枚。 【右】北西から。

北の丸

■松井神社の茶庭…元和5年(1619)、麦島城(当時の八代城)が地震によって崩壊した為、 藩主加藤忠弘は幕府の特別の許しを得て、城代加藤正方(まさかた)に命じ、 松江・徳渕(とくぶち)の地に新たに城を築かせた。3年後に完成したのが現在の八代城である。 北の丸は、加藤正方とその家族の屋敷、そして枯山水の庭園が造られた場所である。 加藤家改易後は、細川三斎(さんさい)がここに書院とお茶室を築き庭園の整備を進めた。 さらに松井家がこれを継承し、今日に至っている。 庭園は城壁の土居を利用した低い築山と、泉水に続く心字池からなる。 書院から築山の上に龍峰連山が遠望できるようにしてあり、 全体的に簡素ですっきりした、わび茶にふさわしい庭園といえる。 名木臥龍梅は、三斎自らが「八代から百花の魁となる人材出でよ」と念じて植えたと伝えられ、 昭和57年に県指定天然記念物となっている。松井神社は、松井家再興の祖康之(やすゆき)と、 干拓事業で八代地方の発展の基礎を築いた興長(おきなが)を祭神として、明治14年に当地に創建されたものである。 (八代市教育委員会の案内板より)

北の丸・東側の石垣

【左&真ん中】重なっているけど、パノラマっぽく。ここにもこんなに石垣が(^▽^)
【右】北の丸側から。左の写真裏。

永御蔵御門・番所(春光寺)

松井直之時代の貞享4年(1687)に、八代城三の丸に設けられた蔵屋敷を「永御蔵(ながおくら)」という。 城内で必要とされる米を保管していた所で、この御門と番所はそこで使われていた。 番所の建てられた年代は不明だが、御門の懸魚(飾り板)の裏側には「文政5年(1822)」という墨書がある。 八代城に関わる現存建物として大変重要な遺構で、昭和61年に松井家の菩提所である春光寺に移設された。 その際、解体調査を行い、できるだけ建造された当時の姿に近いように復元している。 (八代市教育委員会の案内板より)

参拝者用の駐車場があるので安心(^^)夜、落し物を捜しに再訪したら、怖かった…(^^;)

相良氏時代の城下町跡・相良天神入口

春光寺に向かう途中に、見つけた標柱(^^)

相良氏城下町は、古麓稲荷神社下から北側、水無川までの平地に広がっていた。 名和、相良氏の城下町の道筋は、現在も利用されている。 相良氏は、永正元年(1504)から天正9年(1581)まで古麓城とその城下を治めていた。 相良天神は、相良氏城下町の山裾にある。この天神は、相良家の内紛によって殺された一族、 晴高、護高または上村長種の怨霊を鎮めるために祀られたと伝えられている。 また、九州新幹線建設に伴う発掘調査で、南朝方の元号である「元中九年」の銘文が刻まれた五輪塔が、近くから見つかった。(八代市教育委員会の標柱より)

八代城 2010.5.1記

熊本城の後だったので、3時過ぎに到着(^^;)駐車場から石垣が見えるから、おおっ!なんてテンションが上がる♪ とにかく、高石垣がいっぱいで、圧倒されてしまう(@@)角度を変えて見なきゃ損くらい、素敵だった(^w^) 遺構場所には標柱が立っているので、見学もしやすくて嬉しい。ちなみに、小天守へなぜか北側の入口から上がってしまって、下りるのが怖かった(^^;) 先に小天守にいただんにゃを呼ぶも、なかなか気付かず。声はすれど、姿が見えず状態だったとか(笑)ある意味、城を満喫(笑) 石垣上を歩くと見晴らしが良くて、気持ちが良かったし、西側から見る石垣は凄く格好よかった〜♪ 北の丸に残る石垣等、見所がたくさんで、凄く楽しかった♪(所要時間=約1時間)
この後、楽しい気分が一転、事件が!!イモビライザーのリモコンを紛失してしまった! ここで、乗り込む前にイモビライザーを切ったけれど、その後は…?どこで落としたのか? 春光寺でも、高速のPAでも使っていない…。結局、夜になってここの駐車場や春光寺に捜しに来るも、姿は無く(TへT) 忍者の姿をしたトロのストラップを付けていたから、忍法「雲隠れの術」で隠れちゃったのかも!? 旅行後、車内にも無かったので、リモコンだけ買いました…。
(写真=街路樹下で。八代特産の肥後菖蒲と晩白柚(ばんぺいゆ)のイラスト。)

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