【亀山城 その1】

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三重県 亀山城  みえけん  かめやまじょう
■伊勢亀山城(別名=粉蝶城)=見学自由
駐車場=無料駐車場(周辺にあり)
■亀山市歴史博物館=200円
開館時間=9時〜17時
休館日=火曜・祝日の翌日・年末年始・臨時有
駐車場=無料           (2006.3.20現在)
※亀山城では、2006.3.20、2007.5.2の写真を使用。
住所=亀山市本丸町
東名阪自動車道 亀山I.C〜国道1号を亀山市街へ進み、右の県道565号へ。 そのまま走って警察を過ぎ、少し進んで市役所方面へ左へ入る。 もう1回左折し、坂を上がって(左に見えるのが天守台の石垣)中学校を過ぎて左折。 少し進んでカーブを過ぎた右側の駐車場を、この時は利用した。 亀山市歴史博物館の駐車場は広いけど、ここから遠くて…(^^;)

伊勢亀山城 (写真をクリック→拡大)
伊勢亀山城は、文永2年(1265)若山(亀山市若山町)に関実忠が最初に築城し、 元亀4年(1573)織田信長により関盛信が追放されるまで、関氏16代の居城であった。 ただし、関氏時代のうちに現代の位置に遷されたとされ、発掘調査においても 戦国時代末頃の空堀が確認されている。 天正18年(1590)岡本宗憲が入城後、新たに築城したとされ、この城については、 「九々五集」に本丸・二之丸・三之丸からなり、天守も建てられたと記される。 また、三宅氏が城主の時、丹波亀山城の天守を解体するよう命じられた堀尾忠晴が 間違えて、伊勢亀山城の天守を取り壊したと伝えられるが、真偽のほどは 定かではない。 寛永13年(1636)本多俊次が城主になると亀山城の大改修に着手し、 東西700m、南北500mに及ぶ縄張りが確定する。城の外周は堀が廻り、 一部は谷を堰き止めて水堀とした。城内には本丸、二之丸、東三之丸、 西之丸、西出丸の曲輪があり、本丸には将軍家旅館として整備された本丸御殿、 二之丸には城主居館と藩庁を兼ねた二之丸御殿が設けられた。 亀山城の別名については唯一の出典である「九々五集」に姫垣を意味する 「粉ちょう城」と記されている。 城主は八家がめまぐるしく入れ替わったが、延享元年(1744)石川総慶(ふさよし)が 城主となると、以後は石川家11代で明治維新を迎える事となる。 明治6年の廃城令により殆どの建造物は取り壊され、現在は多門櫓と石垣、 土塁、堀の一部が残されているに過ぎない。多門櫓は、県下で原位置のまま 遺存する唯一の城郭建築として昭和28年に三重県指定文化財に指定された。 (亀山市教育委員会の案内板より・絵図も)
天守台&多門櫓
石垣の曲線がとっても素敵!しかも、高〜い!! 微妙に怖い石段(^^;)手すりを掴みつつ降りた。
この3枚は2006.5.2に撮影したもの。ちょっと木が邪魔してるけど、 下から見上げる多門櫓と石垣は素敵♪
多門櫓 笹りんどう 天守台の北
石川家の紋の笹りんどうがあった(^^) この時、丁度、体育の授業が終了 したので、怪しい人にならずに済んだ(笑)
天守台から北西方面 天守台の石垣 亀山城趾碑
この石垣、かなりの高さがあって、真っ逆さまに落ちてしまいそうな 程の急さに、足がすくむ〜!
楠門跡 大久保神宮邸宅門 心形刀流演武場(亀山演武場)
二之丸から本丸へ通じる枡形門で
櫓門は安政元年(1854)の大地震
で倒壊。(亀山市教育委員会の
案内より) ますみ児童公園の近く。
■心形刀流演武場…伊庭是水軒が創始した流派で江戸四代道場の1つ。
奥義を学んだ山崎雪柳軒が亀山に道場を設立し、亀山藩の流儀となった。
(亀山市教育委員会の案内より)
大久保神宮邸宅門をくぐって奥に「心形刀流演武場」がある。
駐車場 西出丸跡 本丸と西出丸の間の堀?
天守台を左折し、楠門跡を過ぎて、 カーブになってすぐ右に、駐車場がある。 手前の車は我が愛車(^^)
西出丸門跡? 関見櫓跡 関見櫓跡の土塁
↑の駐車場から下のカーブになる
手前辺りが、西出丸門跡かな?
西出丸の二重櫓で、亀山城西端の関町方面を望見 する位置にあることから、 関見櫓と呼ばれた。(亀山市教育委員会の案内より)
左の写真の、西出丸跡の横の道を、下へ進んで右側。
ますみ児童公園
本丸の一部。機関車C58359号や飛行機JA3015が展示してある(^^) 端には、三重櫓跡も(左下)。
三重櫓跡 亀山古城跡遠景 亀山古城虎口
パンフに、歴史博物館付近にも、 古城と書かれているので、この一帯が亀山古城跡なのかも?

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