トロとまったり・tripのページ(高鍋城 その1)

宮崎県 高鍋城

みやざきけん たかなべじょう

■高鍋城=見学自由
■舞鶴公園
■高鍋町歴史総合資料館=210円
開館時間=9時〜17時(入館は16時半まで)
休館日=毎週月曜(祝日の場合翌日)、祝日の翌日、 年末年始
駐車場=無料駐車場

2011/5/2現在

住所=児湯郡高鍋町南高鍋
この時は、(高鍋町役場の南側の)県道313号と県道24号との高鍋町黒谷信号で、 県道24号を南下。案内板に従って、右側の舞鶴公園の駐車場へ。

高鍋城

もと財部(たからべ)城といったが、後、高鍋城に改め、通常は舞鶴城と呼ばれている。 平安時代中期、土持氏の所有となり、在来の山城を補修し、ここにおることおよそ600年に及んだ。 長禄元年(1457)伊東氏の所有となり、その四十八城の1つとして、武将落合民部これを守った。 およそ120年の後、天正5年、伊東氏を破り、島津氏の所有となった。 後天正15年(1587)島津氏は、豊臣秀吉に降伏し、同年7月秋月氏の居城となり、 約280年、明治の廃藩に至るまで続いた。 寛文9年(1669)6月、秋月氏3代藩主・種信「財部」を「高鍋」と改め、居城の修復に着手。 岩坂門、石垣、城堀、大手門、本丸など数年を要して完成。近世の城の様式を備えるに至った。 城の構造は、天然の要害を巧みに利用し、丘の中腹に心臓部の本丸を設け、 一段下った平地を二の丸とし、さらに下った所を三の丸とし、 北、南、東を堀で区切り、西は背後の山に野首堀切を設けた。(案内板より・絵図も)

三の丸
舞鶴公園・駐車場
舞鶴神社の碑

【左】三の丸には高校が立つ。素敵な水堀が見られるらしいけど、 この時は見学せず(^^;)写真は、駐車場横の堀。
【真ん中】舞鶴公園の碑と説明板。写真正面が岩坂門跡。手前は駐車場。広い!
【右】城址碑かと思った…。

岩坂門跡

寛文10年(1670)に完成。もとは杉ノ本門という。この門は二の丸の正門で、これより二の丸となる。(標柱より)

【左】二の丸東側の岩坂門跡。 【右】左の写真の左側から。

【左】門跡から三の丸方面。
【真ん中】両側に礎石が残る。
【右】門跡付近にあった模型。

二の丸

【左】二の丸は、舞鶴神社があり、樹齢500年を越える立派な高鍋大楠も見る事ができた。
【右】ここにも模型が。

高鍋大楠

県内でも珍しい古木で、旧八幡神社の神木であった。 明治以降、宮崎県山林会指定の老樹名木となっていたもので、樹齢は500年を越えるといわれている。 高さ16m、根周り13m、目通り幹囲10m余である。地上約2mの高さから南北の二支幹に分かれている。 枝張りは東西20m、南北に28mある。 昭和20年終戦直後の台風により幹や枝を損傷し、年々老衰が目立つようになったものの、依然として風格を保っている。 (高鍋町教育委員会の案内板より)

舞鶴城灯籠まつりの説明碑

【右】本丸政庁へ向かう石段。写真は政庁側からで、石段脇には石灯籠が並ぶ。

舞鶴城灯籠まつりは、高鍋藩の全盛期を築かれた第7代藩主・秋月種茂公を偲び、 種茂公の創設された藩校「明倫堂」の教えに明かりを灯すことを目的に始めた。 種茂公は、18歳の若さで「間引き」を止めさせる為、農家の子供3人目からは、 1日米2合または麦3合を支給するという児童手当を世界に先駆けて行われるとともに、 産業の振興にも力を注がれ、江戸時代の名君の1人と数えられている。 また、種茂公が人材育成の為、創設された藩校「明倫堂」では、「各人が自分の行動規範を確立すること」という心の教育が行われた。 家庭内暴力や幼児虐待が頻繁に行われている今日、今一度「明倫堂」の教えを思い起こし、 「心の教育」を町内外に広くアピールしようというものである。 舞鶴城灯籠まつりでは、秋月家は中国後漢の皇帝の末裔であることから、石灯籠を中国より輸入し、 舞鶴灯籠として舞鶴公園周辺に設置したものである。

本丸政庁跡

高鍋城本丸、奥御殿は第3代藩主、種信公の延宝4年(1676)に完成した。 長峰御門(本丸北側)を過ぎると本丸の玄関があり、玄関を上がると藩士の集まる大広間がある。 その他藩主が藩臣とお逢いになる御書院、家老や奉行が藩政をとり行う家老所、奉行所などがあった。 奥御殿が完成すると同時に、藩主は二の丸の仮住居から転居され、本格的な藩政の充実と発展に向かって邁進なされた。 (高鍋町教育委員会の案内板より)

長峰門跡

【真ん中】礎石も見る事ができる♪
【右】本丸政庁跡側から眺めて。藤棚奥だから写真では見えない…。

延宝6年(1678)に完成。二階建て櫓門で、もとは矢倉門と言う。本丸正門でこれより本丸となった。(標柱より)

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