【高島城 その1】

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長野県 高島城 ながのけん たかしまじょう
■諏訪高島城(別名=浮城)=150円
■高島公園=入園自由
開館時間=9時〜17時半(10/1〜3/31は16時半迄)
休館日=12/26〜12/31及び11月第2木曜日
駐車場=無料(見学者用があり) (2005.9.18現在)
※満車の場合、市役所を利用するといいみたい。
住所=諏訪市高島1丁目20番1号
(広域的には中央自動車道 諏訪I.Cを下りて国道20号を左に諏訪方面へ、 県道183号を右折し国道20号へ。)この時は国道20号を諏訪方面へ進み、 元町交差点を過ぎて少しして諏訪1.2交差点を県道50号へ(少し狭い道)左折。 進んで、信号(高島城)を右折し、そのまま進んでぐる〜っと細い道を回って、 右に曲がらず真っすぐの道のすぐ右に駐車場の入口がある。信号を右折せずに直進すると、 左に市役所。

高島城
天正18年(1590)、当時の諏訪領主諏訪頼忠が徳川家康の関東転封に 従って武蔵国へ移った後、豊臣秀吉の武将日根野織部正高吉 (ひねのおりべのかみたかよし)が諏訪に転封、2万7千石を与えられ 諏訪の領主となった。高吉は安土城や大坂城の築城にも携わった 築城の名手。転封の翌年、天正19年(1591)にはすでに城地の 見立てと設計を終え、翌文禄元年(1592)に着工、慶長3年(1598) まで7年ほどかかって高島城を築城。城の際まで諏訪湖の水が迫り、 湖上に浮いて見えたことから別名「諏訪の浮城」と呼ばれ、 また「諏訪の殿様よい城持ちゃるうしろ松山前は海」と歌われた 名城である。その後、関ヶ原の戦いで徳川軍に属した諏訪頼水(頼忠の子) は、慶長6年(1601)家康の恩恵によって旧領諏訪に帰り藩主となり、 以後、10代藩主忠礼に至る270年の間、諏訪氏の居城としてその威容 を誇った。 その間、一度も百姓一揆を起こさせるような暴政の出た事のない名城でもあった。 しかし明治4年(1871)、廃藩置県により封建制のシンボルである城郭 の撤去が決定。明治8年(1875)には、天守閣の撤去が終了。 翌明治9年(1876)、本丸跡が高島公園として一般に開放された。 諏訪住民の高島城に寄せる愛着は強く、昭和45年(1970)、天守閣が 復興された。同時に、冠木門・隅櫓等も復興された他、 当時の石垣に一部も残る等、今も往時を偲ぶ事が出来る。
築城当時の高島城は、本丸、二之丸、三之丸などの主要な郭をほぼ一直線上に連続配置した 連郭式で、諏訪湖と数条の河川に囲まれた、水を守りとする難攻不落の 水城であった。天守閣は屋根に瓦ではなく、檜の薄い板を柿葺き(こけらぶき) という珍しいもので(復興後銅板葺き)、これは、諏訪の寒冷に 耐えられる瓦が調達できなかった為と言われている。また、築城 当時の石垣は、自然石を加工せずに積み上げた野面積みだった。 天明6年の大掛かりな補修によって大部分は整備されたが、現在でも その一部が残されている。
見学者用無料駐車場 石集配湯枡 昼寝をしている猫
■石集配湯枡… 享和3年(1803)第七代藩主忠粛(ただかた)の頃、 城内三の丸浴場に、引湯のため木樋(きとよ)を 継ぎ、集湯・配湯をした石枡である。 (諏訪市の案内板より)
  (右)物凄く気持ちよさそうに、寝ていた猫(^^) ふわふわ可愛い〜(^^)
本丸
 三層の天守閣と城主の御殿や
 書院、政務を取る御用部屋、
 郡方、賄方。その他、能舞台、
 氷餅部屋等多くの建物があった。
 (碑より)

 (左)庭園になっている本丸。
 (右)土戸門付近から見た本丸。
天守
(左)格好いい♪Pの看板が無ければなぁ。 (真ん中)左の写真の右側。この付近から高島公園へ。 (右)入口。
絵図&模型
(左)高島城の絵図。(2枚)室内のぼんぼりの光が、ショーケースに反射して、 写すとこんな感じになってしまう(^^;)
天守からの景色
(左)東側。写真左側が二之丸。写真中央が諏訪市役所。 (真ん中&右)西側。凄く気持ちがいい♪住みやすそう♪
高島藩の起こりとあらまし・高島城主系図
天正10年(1582)3月、諏訪を支配していた武田勝頼が織田信長に滅ぼされ、 諏訪は信長の家臣河尻秀隆の領地になったが、本能寺の変を機に、 諏訪上社の大祝(おおほうり)であった諏訪頼忠が支配者となり、 徳川家康の配下になった。天正18年(1590)小田原の北条氏滅亡後、 諏訪頼忠は、家康に従って武蔵(現埼玉県)に移り、ついで上野(こうづけ) (現群馬県)に移った。 この時諏訪は、豊臣秀吉の家臣日根野高吉の領地になった。 高吉は天正19年(1591)、この地に城を築くことを決め、 翌文禄元年に着工、慶長3年(1598)ころ高島城が完成したと考えられる。 関ヶ原の戦いの後、慶長6年(1601)に高吉の子、日根野吉明は、 下野(しもつけ)(現栃木県)に移され、上野にいた諏訪氏が諏訪に戻り、 初代高島藩主となった頼水以後10代、明治維新までここを居城とした。 二代忠恒は、将軍徳川秀忠から「忠」の字を賜り、それまで諏訪氏が 名前に用いてきた「頼」の字に替えて「忠」を代々用いるようになった。 三代忠晴時代には藩の体制が出来上がり、四代忠虎、五代忠林は 文化的な業績を多く残している。六代忠厚のころには社会も変動し、 逼迫した藩の財政再建を発端に「二之丸騒動」と呼ばれる御家騒動が 起こり、藩政の転換期を迎えた。 八代忠恕期には、老中松平定信の娘烈姫(清昌院)が輿入れするなど 落ち着きを取り戻した。九代藩主忠誠は幕府の老中などの要職を 勤めたが、十代忠礼の時明治維新を迎え、明治5年(1872)、 高島城も破却される事になった。(案内板より)

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