トロとまったり・tripのページ(島原城 その2)

天守

8時15分頃で早めに到着したのに、どんどん車が!天守前は駐車場なので、少ない時に写せてよかった♪

【右】歴代城主の幟がズラリ!

【左】見上げて。
【真ん中】TV番組「ザ!鉄腕!DASH!!」での「水鉄砲合戦」の時の最終の旗(笑)
【右】二の丸北西から。

天守からの景色

【パノラマっぽく加工】眉山。奥が平成新山。噴火を想像すると怖いな(^^;)

■島原大変肥後迷惑…寛政4年(1792)の雲仙・普賢岳噴火の末期、 眉山溶岩ドームは強い地震によって大崩落し、有明海に大津波を発生させた。 島原城は被害を免れたが、城下町の殆どが消滅してしまった。この崩壊と津波による犠牲者は、 対岸の熊本(肥後)と合わせておよそ1万5千人に達した。 その為、「島原大変肥後迷惑」と呼ばれ、有史以降、日本国内で発生した最大の火山災害となっている。 大崩壊した眉山の山体は、一気に有明海に流れ込み、多数の島々と大津波を生んだ。眼下に見える小さな 島々(九十九島)や小さな森は、崩壊した眉山の名残りである。 この島原大変によって、島原城下は大きく地形を変えた。 大手門広場まで津波が押し寄せ、周辺にあった町屋は一瞬にして消えた。(島原半島ジオパーク推進連絡協議会の案内板より)

【左】昔はビッチリあった武家屋敷方面。丁度、鳥が飛んでいる時に写してしまった(^^;)
【真ん中】有明海。写真真ん中が、大手門を模した島原駅。
【右】九十九島方面。

籠城用の梅干甕&石の水道管

■籠城用の梅干甕…旧藩時代、この城の本丸に置いてあった物で、籠城用としての梅干を入れてあった甕である。 明治8年この城が解体される時、市内中町の喜多氏が譲り受け保存していたものである。

■石の水道管…島原城桜門外の水源と城内三の丸の間に布設してあった物で、 中央をくり抜いた石を漆喰で接合して管状をなし、この1本約70糎の石管をさらに接合して水道管にしたものである。 布設したのは、城主松平氏の後期18世紀末以降といわれる。(案内板より)

お城の鐘
時計台
人力車

【左】本丸内にも時鐘楼。
【真ん中】この時の時間は8時25分だ(笑)
【右】入口付近で待つ人力車。

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