【新発田城 その1】

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新潟県 新発田城 にいがたけん しばたじょう 
■新発田城=見学無料
  (別名=舟形城、菖蒲城、浮舟城、狐尾曳ノ城)
公開日=9時〜17時(4/1〜11/30)
■新発田城址公園
駐車場=無料駐車場       (2010.7.30現在)
住所=新発田市大手町6-4
この時は、村上市方面から新発田市方面へ国道7号を進み、 加治川を渡って、高浜入口信号を過ぎて、線路の上を通り、 島潟信号を国道290号へ左折。後は、新発田城の案内板に従って右折、 案内板通りに進むと右側に駐車場がある。

新発田城(パノラマっぽく…) (縄張図の案内板の写真をクリック→拡大)
現在の新発田城の場所には、室町時代に鎌倉御家人佐々木加地氏の一族、 新発田氏の居館があった。その後、戦国期の勇将新発田重家が、上杉景勝との 7年間の抗争の末、天正15年(1587)落城した。江戸時代には、その跡を 古丸と言っていた。 慶長3年(1598)に越後蒲原郡6万石(のちに5万石、10万石となる)の 領主として加賀大聖寺から移封された溝口秀勝が、古丸を取り込み、 慶長7年(1602)から本格的な築城に取り掛かり、 3代宣直の承応3年(1654)に一応完成している。
秀勝入封から56年後のことであり、版籍奉還まで約270年間、外様大名溝口氏の 居城となった。平地に作られた城で、構えは本丸を二ノ丸が取り囲み、南に三ノ丸を 突き出し、その南東端に大手門を開いた南北に長いひょうたん状をなしており、 南西部一帯に城下町がつくられている。本丸は藩主、二ノ丸の南半分と三ノ丸は 家老など上級藩士の居住地であり、中級以下はこれらを取り巻いて住んでいた。 本丸の形から「舟形城(ふながたじょう)」、周囲は自然の要害として水田開発を させない湿地で、菖蒲がたくさん咲いていたというので「菖蒲(あやめ)城」、 大雨になると城が水面に浮かんで見えるというので「浮舟(うきぶね)城」、 家臣の軍学者長井清左衛門が縄張りを考えている時に、1匹の狐が 現れ、尾を引いて縄張りのヒントを与えたという伝説から「狐尾曳ノ城(きつねおびきのしろ)」 と呼ばれ、江戸末期には事実上の天守閣である三階櫓や大手門をはじめとして、 櫓が11、主な門が5棟あったが、明治初年に新政府の命令で取り壊され、 堀も次々と埋め立てられて、今は表門、旧二ノ丸隅櫓、本丸の石垣と堀の南半分、 土橋門跡土塁を残すのみである。 (新発田市教育委員会の案内板より・絵図も)
二ノ丸
二ノ丸には藩の御用屋敷があり、北方の古丸には米蔵が建ち並び、現市営野球場辺りには、 8代藩主直養(なおやす)が安永元年(1772)に藩学校の講堂及び武芸所を設置、 同5年には医学館が建てられた。西ヶ輪門を通って本丸表門への道は、片側は 本丸の堀、反対側には溝口内匠、窪田平兵衛等の家老や重臣の屋敷があった。 (新発田市教育委員会の標柱より)
(左)緑がきれいな公園。 (真ん中)城址碑。 (右)願文の碑。カタツムリ〜。 (右=2010.7.30、他=2006.7.30撮影)
三階櫓
木造の三層三階櫓で、入母屋造、本瓦葺き。最上層の屋根は、丁字型の
入母屋屋根で、その端に三匹の鯱をのせていることが特徴であり、全国
にも類を見ないものである。平成16年6月に復元。 (新発田市教育委員会の標柱より)

3匹の鯱が乗っているなんて!驚き!
(左=2010.7.30、下2枚=2006.7.30撮影。)
土橋門跡
本丸を囲む帯曲輪の南西に位置する。この土橋門と帯曲輪、そして本丸の 表門及び鉄砲櫓により、櫓を併用した枡形門に等しい防御機能を持たせ ていた。正保元年(1644)に作成された絵図面に確認する事ができ、これ 以前に創建されたものと考えられる。寛文8年(1668)3代溝口宣直侯の 時代にあった大火によって焼失したが、元禄13年(1700)までには再建 されたと考えられる。 (新発田城を愛する会の案内板より) (右)土橋門跡。
(左下)本丸から。
(下真ん中)土塁と土橋(写真右)。
(右下)土橋門横の土塁。光が素敵!

(右&右下=2006.7.30、左下&下真ん中=2010.7.30撮影)
堀部安兵衛の像
赤穂四十七士の1人。新発田藩士中山弥次右衛門の息子で、母方の祖母は
藩祖溝口秀勝の娘だったが、13歳の時に中山家が断絶。家名再興のため
江戸に出て、高田馬場の敵討により名を挙げ、赤穂藩士堀部家の婿に。

中山家が断絶。その訳は、辰巳櫓の焼失だとか…。
ところで、この像は、表門向かい側の帯曲輪にいる。
(2006.7.30撮影)
木橋跡
(左)表門に掛かる橋。案内板を見ると、木橋だったよう。(2006.7.30撮影) (真ん中)鉄砲櫓跡(旧二ノ丸隅櫓)から。
(右)橋から表門横の石垣を。孕みが凄い!と 思ったら、2006年の写真も、同じだった(^^;)  (他=2010.7.30撮影)
表門
表門は、桁行9間(約16.3m)、梁間3間(約5.4m)で、 享保17年(1732)に再建された櫓門。腰回りは瓦張りの 海鼠壁。 (新発田市教育委員会の案内板より)
(左上)公開時間が終わり閉門。諦めきれない人達が
    交渉中だった(笑)
(上真ん中)本丸側から。写真右横の石段から内部へ。
(右上)本丸から。
(左下)大手門の内部入口&海鼠壁(模様っぽいやつ)。
    内部は暗いのかな…と思ったら、格子から光
    が入って、落ち着いた雰囲気だった(^^)
(下真ん中)石落とし。
(右下)辰巳櫓復元模型。 (表門=全部2006.7.30撮影。)

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