トロとまったり・tripのページ(蓮池城 その2)

男山(雄山または小芙蓉山)

公園の南端の築山で、幕末頃はこれより南に練兵場があり、ここで様式練兵がなされた。 頂上は藩主、重役方の観兵の場所または指揮所に使用された。 なお頂上には大正15年(1926)1月15日の時の佐賀県知事斎藤行三書による 「王世子李垠殿下御展望所」の碑が今も残っている。(案内板より)

雲菴道人歸田詩碑(うんなんどうじんきでんのしひ)

雲菴道人とは旧蓮池藩主第8代鍋島直與公の別号なり。 公は天保12年(1841)時の幕府から若年寄・寺社奉行の推挙を受けたが、 佐賀本藩の反対がありついに辞退し、 さらに藩主の職も20歳のわが子直紀(なおただ)に譲り、自身は隠居して蓮池の地に帰った。 その時の心境の詩十首である。 後に領内の塩田より大石を運ばせ嘉永2年(1849)春2月浄書、 石工筒井新吾に刻ませ、3月22日に天賜園に建つと記してある。(案内板より)

頌徳園碑

公爵徳川家達の題字。 大正7年(1918)建立。 裏面に永田暉明(てるあき)撰の直與公版頌徳文あり。 明治44年肥筑陸軍大演習の際に、直與公に正四位を追贈され、 その書画筆跡が天覧に浴くしたことを伝えている。(案内板より)

あらこ(荒籠・洗湖)

川岸に石を組んで護岸、舟つき、流れの調整をはかる出っ張りである。 筑後川にも船着場として諸所にある成富兵庫茂安により作られたものと伝えられる。 蓮池公園のあらこには、桜の時季には大川や城島方面からの花見客がここに舟を着けたものである。(案内板より)

芭蕉の句碑

一声の江に横たふや郭公 ばせを翁
一説に松尾芭蕉とも言うが真偽の程や建立の事については詳らかではない。 しかし、この句碑の辺りの初夏の佇まいは、まさにこの句そのものであった。 もと中地にあったものを明治10年公園が出来る時、ここに移したともいわれる。(案内板より)

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