トロとまったり・tripのページ(古田織部陣 その1)

佐賀県 古田織部陣

さがけん ふるたおりべじん

■古田織部陣
駐車場=無し
【撮影日】2019/1/4、2019/1/3、2018/1/4、2017/8/16、2013/6/19。
【左】手前から曲輪V、奥が曲輪U、右端が曲輪Tの石垣。(2018/1/4撮影)

2018/1/4現在

住所=唐津市鎮西町名護屋
標柱は、名護屋城跡の南側の国道204号を西へ、陸橋手前の分岐(左側)に立つ。 案内板は、標柱が立つ分岐を左折し南下(※駐車場が無いので、道中の花壇付近の駐車スペースに置き徒歩で向かった。)。 道なりに進んだ先の分岐にある。陣跡は、案内板がある分岐から南東へ進んだ右側。 (※ここで紹介するのは、アクセスの選択肢の1つです。)

古田織部陣

【左】(写真をクリック→拡大)陣跡に設置されていた案内板。(2018/1/4撮影)

古田織部(重然…しげてる)は美濃国(岐阜県)出身で、はじめ叔父であり養父でもある古田重安と共に織田信長に仕え、天正元年(1573)には山城国西岡を所領した。 信長のもとでは「使番」として活躍するが天正10年(1582)頃、茶の湯の師匠となる千利休と出会うことで茶道に傾倒していく。 信長亡き後は豊臣秀吉に仕え、武人としては勿論、利休と共に茶会を取り仕切るなど「茶の湯」の道を究め、天正19年(1591)、利休が秀吉より切腹を命じられた後は、茶の湯の第一人者として秀吉に重用された。 古田織部は、130騎という小規模の兵を率いて在陣していたが、渡海はしておらず、利休亡き後の「茶の湯」の第一人者として秀吉に付き添い、名護屋での茶席を取り仕切っていたものと創造される。
陣跡は名護屋城から南へ約500mの位置にあり、丘陵先端部の西側を切り盛りして、約2,000uの広さを持つ中心的な曲輪Tを配置し、西側と北東側に虎口を設けている。 平成2、3年度に実施された発掘調査では、L字形に配置された掘立建物跡、柱穴列(塀跡か)、土壙、溝跡、玉砂利敷き等のほか、虎口に伴う石段や通路跡が発見された。 特に通路は丸みのある自然石を飛石状に並べるもので、また、曲輪に入る虎口の石段の踏み石も飛石状の自然石を用いた、他の陣跡ではみられない特徴的なものである。 そのほか、曲輪T内の各所では玉石敷きも発見されており、陣屋全体に見られる露地風の雰囲気は、茶人である織部ならではの特徴といえるであろう。(案内板より)

古田織部陣 ・ 標柱&案内板

■古田織部(1544〜1615)城主…文禄の役では名護屋に駐屯し、慶長の役では渡海していた武将である。 しかし、千利休の高弟で、高山右近・細川忠興・蒲生氏郷などと「利休七哲」に数えられており、茶人としても名高い。 江戸幕府の2代将軍秀忠の茶道指南も務めた。特異な意匠で知られる「織部焼」(茶器)や「織部灯籠」の創始者でもある。(案内板より)

【左】道の駅 桃山天下市での歴史探訪の道の案内板で、10番の旗の所に案内板がある。(2019/1/3撮影)
【右】(切り取り加工)左の写真の10番の旗の案内板。(2018/1/4撮影)

(※ここで紹介するのは、アクセスの選択肢の1つで、自分用の覚書として詳細を。)
【左】名護屋城の南側の国道204号を西へ。陸橋(奥に風呂尾呂信号)手前の左側に古田織部陣の標柱が立つ。 案内板へは、分岐を左折。(2019/1/4撮影)
【真ん中】左の写真の分岐と標柱を。(2017/8/17撮影)
【右】古田織部陣の標柱「古田織部陣跡・丹波の内」。(2013/6/19撮影)

【左】左上の写真の分岐を左折して進む。(2018/1/4撮影)
【右】(切り取り加工)左の写真の先から遠景を。上部に曲輪Tの石垣が見えた♪(2018/1/4撮影)

【左】左上の写真を進んだ先の分岐。写真は、陣跡へ向かう道側から案内板方面。(2018/1/4撮影)
【真ん中】分岐付近の案内板と陣跡の遠景。(2017/8/17撮影)
【右】案内板側から陣跡の遠景。(2018/1/4撮影)

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