トロとまったり・tripのページ(徳川家康別陣 その1)

佐賀県 徳川家康別陣

さがけん とくがわいえやすべつじん

■徳川家康別陣
駐車場=駐車スペース
【撮影日】2019/1/4、2019/1/3、2018/1/5、2017/8/17、2017/8/16、2013/6/19。
【左】曲輪Uの虎口付近の石塁。(2019/1/3撮影)

2019/1/3現在

住所=唐津市呼子町殿ノ浦
この時は、名護屋大橋の東側の国道204号のひばりヶ丘信号(伊達政宗陣跡信号の東側)から呼子大橋方面へ。 進んでいると左側に標柱が立つ。 標柱がある道を少し進むと、右側に陣跡へ向かう道がある。 標柱から徒歩ですぐの所なので、見落としに注意(^^;)

徳川家康別陣

【左】陣跡内の案内板。汚れがひどかった(^^;)(2019/1/3撮影)

徳川家康は、豊臣政権の中でも五大老の筆頭大名で、後に江戸幕府を開いた人物である。 文禄・慶長の役では、渡海することなく豊臣秀吉を補佐し、明国使節団の接待役を務めている。 この徳川家康別陣跡は、徳川家康が居住した本陣の対岸に位置し、軍勢が駐屯したとされる別陣と呼ばれている。 陣跡の内部は、土塁や石塁で囲まれた方形状の2つの曲輪に分かれ、中央に位置する長方形の曲輪(U)は、周囲を土塁や石塁が巡り、東側には空堀が配置されている。 曲輪の南側にはかつて虎口(入口)があったと推定される。 この曲輪の北東側には、やや小さな長方形状の東西25m×南北75mの曲輪(T)があり、周囲は低い石塁が巡っている。 また、これらの曲輪の中間には細い帯曲輪があり、丘陵の先端には櫓台跡が残っている。 この徳川家康別陣では、遺構確認のための発掘調査を実施している。 その結果、曲輪(T)からは、2棟の礎石建物跡、掘立柱建物跡、玉石敷、集石遺構、石塁を発見している。 曲輪(U)からは、土塁や石塁、掘立柱建物跡を発見している。掘立柱建物跡は3棟が並んだ状態で、 兵舎を想像させるように建ち並び、大きなものは東西3.65m(2間)×南北18.25m(10間)もあり、大勢が宿泊できる規模だった。 また、先端の櫓台跡からは多数の柱穴が発見され、その一部は掘立柱の櫓台であったことが想定された。 この櫓台跡は名護屋湾を見渡す位置にあり、本陣と連携して名護屋湾を監視していた可能性も考えられる。(案内板より)

徳川家康別陣 ・ 道中〜標柱

(※ここで紹介するのは、アクセスの選択肢の1つで、自分用の覚書として詳細を。)
【左】道の駅 桃山天下市にあった歴史探訪の道の案内板。対岸に本陣がある。(2019/1/3撮影)
【右】(切り取り加工)名護屋大橋を東へ進んで。(2019/1/3撮影)

【左】名護屋大橋を渡って、東へ進んだ先の伊達政宗陣跡信号を過ぎて…。(2019/1/3撮影)
【真ん中】伊達政宗陣跡信号から東へ進んだ先のひばりヶ丘信号を左折、北西へ。(2019/1/3撮影)
【右】ひばりヶ丘信号から道なりに進んで、旧呼子中学校(写真右側)の横を過ぎて…。(2019/1/3撮影)

【左】旧呼子中学校から道なりに進んで。左側の分岐付近に標柱が立つ。(2019/1/3撮影)
【真ん中】徳川家康別陣跡の標柱「徳川家康別陣跡・武蔵江戸」。(2013/6/19撮影)
【右】標柱の横に、やじろべえがいた時も…。2018年時には倒れて、2019年にはいなかった。(2017/8/16撮影)

【左】標柱側から道路を挟んだ所に宗義智陣の標柱が立つ。(2019/1/3撮影)
【右】(切り取り加工)宗義智陣の標柱側から標柱方面。(2017/8/16撮影)

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