トロとまったり・tripのページ(徳川家康陣(本陣) その1)

佐賀県 徳川家康陣・本陣

さがけん とくがわいえやすじん・ほんじん

■徳川家康陣(本陣)
■なごや保育園、
駐車場=付近の墓地
【撮影日】2019/1/3、2018/1/5、2017/8/16、2013/6/19。
【左】主郭・南西の隅櫓の石垣。(2017/8/16撮影)

2017/8/16現在

住所=唐津市鎮西町名護屋
陣跡と標柱は、名護屋大橋側から国道204号を西へ進み、右側のスーパー「まいづる9」(唐津市役所 鎮西支所を過ぎて、少し進んだ右側)の東側の道を右折。 すぐ先の分岐で県道310号へ左折して道なりに進み、県道310号が西へ向かう所の右側に派出所があるので、その派出所横の道へ右折(切り返しが必要かも)。 その後、突き当たり(Y字)左折、進んだ右側になごや保育園がある。標柱は、保育園の西側に立ち、保育園の北側が主郭。 案内板は、名護屋小学校の東側の道を北上し、地図上で右カーブになる手前の左側の道(小さな古園鉄工所入口の案内がある)を進んで行くと、古園鉄工所手前の右側に案内板がある。 (※ここで紹介するのは、アクセスの選択肢の1つです。)

徳川家康陣(本陣)

【左】写真をクリック→拡大。(2017/8/16撮影)

■徳川家康 陣跡…名護屋城跡の北東に位置し、呼子側にある徳川家康別陣とともに名護屋湾の要所を占めている。 陣跡は地元では「竹之(ノ)丸」と呼ばれている。内部は主郭(中心の曲輪)と竜泉寺に向かう道を挟んで北郭と現在の保育園になっている南郭、そして東郭の曲輪が配置されている。 主郭は五角形で、東西部分に虎口(入口)と想定される場所がある。 昭和60年に保育園建設に伴い発掘調査が行われ、そこからは堀跡、隅櫓台跡、そして通路跡(土橋)を発見している。 堀跡は、主郭の南側から西側かけて巡り、隅櫓台跡は主郭の南面側に張り出していた。 通路跡(土橋)は堀に挟まれ幅約6mだった。(2017/8/16時点の主郭の案内板より)

■徳川家康陣跡(本陣)…通称「竹の丸」と呼ばれるこの地に本陣を、名護屋湾を挟んだ対岸の「地獄の浜」に別陣をつくり、名護屋湾の要衝を固めた。 昭和60年(1985)鎮西町立名護屋保育所の改築に伴い、発掘調査が実施された。調査の結果、主郭(現在の町民広場)南西部に割石を用いた整美な石垣が見つかり、 その周囲に大量の瓦が出土したことから、隅櫓の石垣と推定されている。 また、主郭より一段低い平坦部は曲輪と考えられ、特に主郭に西側(現在畑地)及び南側には堀が巡っていることが確認され、 守りを強固なものにしている。さらに、現在の保育所の通路は当時の通路とほぼ一致し、通路の南側には、幅約5m、深さ約5mの堀が南へ伸びている。 当時の堀の平面形は砂場の輪郭線で表示されている。(2013/6/19時点の鎮西町教育委員会の案内板より)

【左】案内板より櫓台跡。(2017/8/16撮影)
【真ん中】案内板より堀跡。(2017/8/16撮影)
【右】案内板より肥前名護屋城図屏風 徳川家康陣。(2017/8/16撮影)

徳川家康陣(本陣) ・ 案内板

■徳川家康(1542〜1616)武蔵国江戸城主…江戸幕府を開いた初代将軍。 永く今川義元の人質であったが、桶狭間の戦いの後に織田信長と和睦してからは、浅井・朝倉氏そして武田氏と次々に戦い、台頭してくる。 本能寺の変後、織田信雄とともに豊臣秀吉と対立するが、講和し、以後は臣従する。 天正18年の小田原の戦い後、秀吉の命令で江戸を本拠とする。文禄の役では、1万5千人もの大軍を率いて名護屋に駐屯する。 他の大名と異なり、徳川氏は本陣とは別に家臣団の陣屋をも構えるが、これは秀吉が警戒した為ともいわれている。(案内板より)

【左】道の駅 桃山天下市にあった歴史探訪の道の案内板。19番の旗の所に案内板がある。(2019/1/3撮影)
【右】19番の旗の案内板。左から本多忠勝陣、真ん中が徳川家康陣、右が大野治長陣。 でも、見えてないよね…(^^;)(2017/8/16撮影)

【左】写真は、名護屋小の北側の道を東へ進み、古園鉄工所を過ぎて左側の案内板へ。ここからだと遠景は見えないよね…。(2017/8/16撮影)
【右】(切り取り加工)左の写真の説明板から少し進んで。遠景は見えてる?(2017/8/16撮影)

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