【雉岡城 その1】

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埼玉県 雉岡城  さいたまけん  きじがおかじょう
■雉岡城(別名=八幡山城)=見学自由
■城山公園
駐車場=駐車スペース      (2011.9.24現在)
(写真)東の郭と南の郭との水堀。
住所=本庄市児玉町八幡山
この時は、関越道 児玉I.Cを下りて(国道254号藤岡・児玉方面左へ方面)、 国道462号を走って、途中でそれて、大北信号で左折。 そのまま進み、線路を渡って突き当りを右折。 県道191号を西に進んで、 児玉町役場北入口信号を過ぎて、すぐ右側に入口(塙記念館の案内板が目印)。

雉岡城
雉岡城跡は、別名八幡山城跡とも呼ばれ、 戦国時代に山内上杉氏の居城として築かれたが、 地形が狭いので、山内上杉氏は上州平井城に移り、 当城には家臣の夏目豊後守定基をおいて守備させた。 永禄年間には北条氏邦によって攻略され鉢形北条の属城となったが、 天正18年(1590)に豊臣方小田原攻めの際、前田利家によって攻囲され落城した。 その後、天正18年8月徳川氏の関東入国後、 松平家清が1万石の格式を受けて領主となり居城としたが、 慶長6年(1601)三河国吉田城に転封されるや廃城となった。 現在、二の郭は児玉中学校、三の郭は県立児玉高校の敷地となっており、 本郭の一部は公園として残されている。 本郭は他の郭より一段と高く、中央に幅10mを越える空堀があり、 南側は断崖をなしている。 (埼玉県の案内板より)



(左)児玉町教育委員会の案内板より。 右下の黒い●が現在地で、公園の入口。
(右)入口から入った所の土塁そばにある雉岡城跡碑。
入口
(左)塙記念館の案内が入口の目印。 写真に写る土塁は、南の郭(三の郭)の南側で、 写る道路付近は水堀跡。
(真ん中)左の写真から入って、公園入口手前に駐車スペース。 (右)入口の雉岡城跡。
南の郭(三の郭)・南側
(左)公園入口から南側へ。 (真ん中&右)パノラマっぽく。入口方面。 曲輪内の緩やかな土塁と低い曲輪。
南の郭(三の郭)・南側の土塁&切れ目
 (左)入口付近から続く土塁。
 写真奥に、土塁の切れ目がある。
 (右)南側の土塁の切れ目。
 (左下)右上の写真の切れ目の
 左側。
 (下真ん中)右上の写真の切れ
 目の右側。誰かの銅像がある。
 (右下)南の郭の西側を。
南の郭(三の郭)・東側〜北西側
(左)公園入口から東側。右側の土塁が下の写真。 (真ん中)下の写真の右側の滑り台。 (右)北西側。
(パノラマっぽく加工)北側から東側を。 左上の写真の土塁が、なかなか高さがある(^^)
南の郭(三の郭)北西の空堀
(左)馬出しの北側から空堀を。底にあるのは夜泣き石(親子石)。 (右)堀底・北側から。高さがある!
夜泣き石(親子石)
この石には、次のような伝説がある。 昔、殿様の夕餉に針が入っており、怒った奥方は側女お小夜の仕業だと思い、 取り調べもしないで、お仕置き井戸に生きたまま沈めさせてしまった。 その時、お小夜のお腹には、生まれるばかりの赤ちゃんがいたそうである。 お小夜の死後、お城ではお乳がにじみ、飲み水も池の水も白く濁り、 夜になるとお小夜の泣き声がどこからとこもなく聞こえてきたそうである。 また、井戸からお小夜の棺桶を引き上げてみると、 大きな石になったお小夜は子供石を抱いていたそうである。 子供を思う親の心に奥方はお小夜に対する仕打ちを後悔し、 お堀端にこの2つの石を祀り、女達に慰めの言葉を絶やさぬようにと頼み、 髪を切って喪に服したと言い伝えられている。 児玉の民話より。(児玉町教育委員会の案内板より)

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