トロとまったり・tripのページ(比叡山延暦寺 その2)

西塔(さいとう)

西塔エリアは、一気に観光客が少なくなり、静まり返ってた(^^)ちなみに、武蔵坊弁慶が住んでいたのはこの地域。

椿堂 ・ 親鸞聖人修行の地

【左】聖徳太子もここに来たのか…(・o・)

昔、聖徳太子が比叡山に登られた時、使われた椿の杖をこの地にさして置かれたところ、その椿が芽を出して大きく育ったという因縁から、この堂が椿堂と名付けられた。 お堂の傍らに、それに因んだ椿の大木がある。ご本尊には、千手観世菩薩をお祀りしている。(案内板より)

弁慶のにない堂(常行堂&法華堂)(重文)

いろいろとある伝説の中、このお堂2つを弁慶さんが担ぐなんてねぇ…(^^;) このお堂2つと廊下を一緒に写したけど、全部入りきらないんだよねぇ(^へ^;)

同じ型のお堂が並んでいて、渡り廊下でつないでいる。 右を法華堂、左を常行堂といい、法華と念仏が一体である事を示し、比叡山では、 「朝題目・夕念仏」といって、両堂それぞれ常行三昧、法華三昧の修業の道場である。 これを天秤にして、弁慶が担いだという伝説から、2つのお堂をあわせて、俗に「弁慶のにない堂」と呼ばれている。 (案内板より)

常行堂(重文)

常行堂は、桁行五間、梁間五間、一重、宝形造、栩葺の建物で、正面に一間の向拝をつけている。 隣の法華堂とは桁行四間、梁間一間、唐破風造の廊下でつながれ、2つの同形式の堂と廊下の姿から「にない堂」と呼ばれている。 阿弥陀如来を本尊とする常行堂は、常行三昧を修する堂で、外観は蔀戸と板唐戸を用いた和様の優れた建築で、 文禄4年(1595)に建てられたものである。内部も柱を立てるところには、すべて柱を立てるという珍しい形をとっている。 (大津市教育委員会の案内板より)

法華堂(重文)

法華堂は、桁行五間、梁間五間、一重、宝形造、栩葺の建物で、正面に一間の向拝をつけている。 隣の常行堂も同形式で、桁行四間、梁間一間、唐破風造の廊下で結ばれていることから、廊下を「にない棒」に見立てて、両堂を「にない堂」と呼んでいる。 普賢菩薩を本尊とする法華堂は、法華三昧を修する堂で、外観は、蔀戸と板唐戸を用いた和様の優れた建築で、文禄4年(1595)に建てられたものである。 内部も常行堂と同様で、柱を立てるところには、すべて柱を立てるという珍しい形をとっている。(大津市教育委員会の案内板より)

恵亮堂

恵亮和尚(800〜859)を本尊として祀る。 この和尚を大楽大師と称し、当時お山の中では、修力霊験に最も優れた和尚であり、京都の妙法院を創建した人である。(案内板より)

延暦寺転法輪堂(釈迦堂)一棟(重文)

【左】いくら命とはいえ、こんな山の中に移築だなんて、大変だっただろうなぁ〜(^^;)
【右】釈迦堂からにない堂への石段。

転法輪堂は、桁行七間、梁間七間、一重、入母屋造、栩葺形銅板葺の建物で、織田信長の焼き討ち後、文禄4年(1595)に豊臣秀吉の命により、 貞和3年(1347)頃に建てられた大津の園城寺(三井寺)弥勒堂(金堂)が移されたもので、比叡山で最古の建築である。 天台仏堂の特色である外陣の床張り、内陣の一段低い土間となっていて型どうりのものだが、正面の柱間がすべて戸口(入口)になっていて珍しいものである。 また、側面は前より二間が戸口、他は連子窓が板壁になっており、縁も正面と側面の一部についているだけである。 昭和34年(1959)の解体修理によって、全体的に穏やかな美しい姿に復元された。(大津市教育委員会の案内板より)

瑠璃堂(重文)

比叡山最古の建物で、薬師如来を本尊としている。

このお堂は、今まで見学していた場所とは違い、奥比叡ドライブウェイから細道にそれた場所にある。 案内板が無いので、一抹の不安を抱えて歩き続け、無事に辿り着いたお堂。苔むした石垣とお堂がいい感じ(*^^*)

奥比叡ドライブウェイの紅葉&京都の景色

【左】ほんのり霧の中の紅葉がきれい(^^)
【右】奥比叡ドライブウェイから、瑠璃堂へ行く道から見たもの(^^)

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