【二俣城 その1】

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静岡県 二俣城 しずおかけん ふたまたじょう
■二俣城=見学自由
■城山公園
駐車場=無料駐車場       (2009.3.21現在)
住所=浜松市天竜区二俣町二俣
この時は、浜松市北区から天竜区方面へ 国道362号を進み、根堅信号で国道152号へ左折。 鹿島橋で天竜川を渡り、トンネルを過ぎて 二俣城址の看板に従って左折。道なりに右カーブ、 すぐ斜め左の坂を上がっていくと右側に駐車場がある。

二俣城
■二俣城をめぐる攻防… 永禄11年(1568)12月から天正3年(1575)12月までの7年間、 二俣城は、徳川・武田両氏の攻防の舞台となった。 二俣城は天竜川と二俣川の合流点に位置する天然の要害であり、 しかも、二俣は遠江の平野部と北遠の山間地方とを結ぶ 交通路の結接点で、遠州平野の「扇の要」であったからである。
<元亀3年の攻防>
元亀3年(1572)10月、武田信玄は大軍を率い、 信濃を経て遠江に進入し二俣城を攻撃した。 武田軍は力攻めの方法をとらず、城の水の手を断つ作戦を選んだ。 徳川軍の城兵が崖に櫓を建て、釣瓶で天竜川から水を汲み上げているのを 知り、上流から筏を流して井戸櫓の釣瓶を破壊した。 こうして2ヶ月ほどで二俣城は陥落した。
<天正3年の攻防>
天正3年(1575)5月、長篠の戦で勝利を得た徳川軍は、武田勢を 一掃すべく二俣城の攻撃に着手した。 鳥羽山に本陣を置き、毘沙門堂・蜷原・渡ケ島に砦を築き 二俣城を包囲した。武田軍は7ヶ月で兵糧が底をつき城を明け渡した。 そして、二俣城には大久保忠世が入城し、徳川氏が関八州へ移封する 天正18年(1590)まで在城した。 この間大規模な修築がなされ、天守台を始めとする諸施設を構築したと 考えられる。
■二俣城の構造… 二俣城は、標高90mの台地上に築かれた二俣城は、 北側から北曲輪・本丸・二之曲輪・蔵屋敷・ 南曲輪がほぼ一直線上に配置されている。 天守台のある本丸の南・北にそれぞれ虎口を設け、 北虎口は喰違い虎口である。 本丸西側には小規模な天守台が残っており、 石積みは野面積みである。本丸の南側には二之曲輪 があり、桝形門跡がある。二之曲輪と蔵屋敷の間、 そして蔵屋敷と南曲輪の間にはそれぞれ堀切がある。
■徳川信康自刃事件… 大久保忠世が在城中に起こった事件として、 有名なものに家康の嫡子信康自刃事件がある。 一般には、信康とその母築山御前が武田氏と 通じていた事を理由に、織田信長が信康を 切腹させるよう家康に命じたとされている。 家康はこれを受けて信康を天正7年(1579) 9月15日、二俣城で切腹させた。 (浜松市教育委員会の案内板より)
駐車場 土塁 二俣城址碑
ちょこっと見えているのが愛車。 駐車場には土塁が。堀切の土塁? 城跡の解説が始まる道(^^)
腰曲輪 堀切 馬出し
北曲輪の西側。腰曲輪かな? 確かに堀切! 北曲輪の南側。これが?って感じ。
北曲輪 北曲輪と馬出しの間 二俣城址入口
北曲輪には旭ケ丘神社が立つ。 北曲輪(左側)と馬出し(右側)。 ←の間を下りると城址入口。
腰曲輪
北曲輪の東側は車道で、腰曲輪。 こちらにも城址碑♪ 見上げると桜が咲いていた♪
喰違い虎口(本丸)
本丸北東側の虎口。  (左)馬出し方面から。  (真ん中)本丸から。  (右)天守台上から。虎口横には、土塁が続く!
本丸
虎口から天守台方面を。暗いな…。 天守台から二之曲輪方面。 ふくろうが乗ってる城址碑♪
天守台
(上)いろいろな角度から(^^)
 荒々しい感じがなかなか素敵♪
 最初、見学者がいた時に写したら、
 下をのぞき込む姿が、今にも、
 飛び降り○○をしようとしている
 ように見えたので、すぐ消去(笑)
(左)天守台上。何も無い状態。
(右)天守台のすぐ横に、桜が♪
一之門 振り返って 土塁
本丸から。右側へ行くようになる。 二之曲輪から。どこが二之門? 虎口追手へ続く土塁。

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