【浜松城 その1】

・・・浜松城は3ページにわたって紹介・・・  【1】 【2】 【3】  ■次へ→

静岡県 浜松城 しずおかけん はままつじょう
■浜松城
■浜松城公園=入園自由
■天守=150円
開館時間=8時半〜16時半
休館日=12月29日・30日・31日
駐車場=無料駐車場(開場時間=8時〜21時)
                    (2009.3.21現在)
住所=浜松市中区元城町
この時は、東名高速道路 浜松I.C〜県道65号を南下し、 国道152号へ。西へ進んで、市役所方面へ国道152号を右折。 市役所を過ぎて、ホテルコンコルド浜松の手前の道を左折。 左側に駐車場がある。(バーがあるので注意。)

浜松城 (今昔図の写真をクリック→拡大)
浜松城は、徳川家康が遠州攻略の拠点として 築いた城で、元亀元年(1570)6月に入城し、 17年間在城した。東西600m、南北650mの規模で、 南の東海道に大手門が開き、東から西へ三の丸、 二の丸、本丸、天守曲輪と連なり、順次高さを増す。 家康の後、城主は代々譜代の大名が勤め、在城中に 老中まで栄進した人が多い。中でも水野越前守忠邦の 名はよく知られている。 (浜松市の案内板より)
浜松城の石垣(野面積み)
浜松城の石垣は見るからに荒々しく、外観は粗雑で 一見崩れやすいように思えるが、 400年の風雪に耐え、今なお当時の面影を残している。 この石垣は野面積みといい、自然石を上下に組み合わせて 積む方法で、慶長(1596年〜1615年)以前は この方法が多く用いられていた。 石の大きい面を内側にして長く押し込み (牛蒡積み)、その内側に小型の栗石を 1〜1.5mほど詰め、さらに砂利を 入れてあるので水はけもよく、水圧で崩れる事が無い。 石垣表面の隙間には詰め石をし、外観は 乱雑だが、堅固に造られている。 浜松城は、特に天守台と天守門跡付近の 石組が堅く、石も大きなものが使われている。 また、突角部には長方形の石材を小口と側面が 交互になるように配した算木積み法を用いている。 石垣の斜面は直線的で、57度〜78度の傾斜をしている。 石垣に用いた石材は珪岩と呼ばれる物が殆どで、その他 石灰岩、結晶片岩などが見られる。 珪岩は浜名湖北岸の山々で見られ、 現庄内地区の大草山や根元山、対岸の 湖西市知波田付近で切り出され、佐鳴湖東岸まで 舟によって運ばれ、そして、浜松城まで 運ばれたと推定される。 この石垣がいつの時代に築かれたかについては正確な資料が ないのでわからないが、2代城主 堀尾吉晴の頃(1590年頃)と考えられている。 (案内板より) (左='03.9/14撮影) 
浜松城のライトアップ
晩御飯に、浜松餃子をたんまり食べ過ぎて、 物凄くお腹が苦しい中、ライトアップを見学(笑) 近くで楽しめた♪
羊歯印の街灯 大手門跡
浜松駅から浜松城までの街灯に、家康兜印の 羊歯があって、沿って行くと、浜松城に 辿り着く事ができるらしい。 この付近の道路中央部に、浜松城の正門の大手門があった。 南面する間口8間(約14.6m)、奥行4間(約7.3m)の 瓦葺の建物で、つねに武器を備え、出入りが厳しく 取り締まられていた。 (浜松市・ (財)浜松観光コンベンションビューローの案内板より)  車を見ながら想像すると不思議な感じ(^^;)
駐車場方面 せせらぎ池 コブシ
(左)国道152号から駐車場方面を。体育館が無くなって、 ピョコッと天守が♪  (真ん中&右)遠くからだと桜かと。
中央芝生広場 天守 本丸だった道
前、ここのベンチで鰻の蒲焼弁当を
食べて、骨を刺した事を思いだす。
歯と歯茎の間に骨が刺さって、苦労
したっけ…。思い出しつつズームで。
以前、カップルがイチャついてた道は、
本丸だったよう。左は、二の丸方面。
二の丸
二の丸は、本丸の東側に位置し土地も一段 低く、広さがおよそ4950u(約1500坪)で城主の居 館があった。また、政庁も設けられて江戸時代を通 して藩政の中心だった。 二の丸の主な建物は「表御殿」と「奥御殿」からなっていて、 「表御殿」には藩の行政機関が置かれ、およそ1650u(約500坪)あった。 唐破風の玄関の奥に広間と使者の間、正面奥に近習・年寄り詰め所・ 祐筆所と並び、その左側に藩主が執政に使う上段の間と書院、 右側には御用所・勘定書・勝手等の部屋があった。 「奥御殿」はおよそ330u(約100坪)で、左側が藩主の居間、 右側が湯殿、小姓詰め所など計15の部屋があった。 両御殿とも、生活と執務に便利なように、細かく部屋割りがされていた。 また、二の丸の北の広場には米蔵があって、御城米蔵(ごじょうまいぐら)とか 八千蔵(やちぐら)と呼ばれていた。西側には、二代将軍徳川秀忠の 誕生屋敷跡ということで、享保元年(1716)の絵図には、 誕生の松が描かれている。現在、二の丸跡地は浜松市役所・ 浜松市立元城小学校の一部となっている。 (案内板より) (左)浜松城公園の石碑。 
(左下)本丸から。奥が二の丸で、 手前に、本丸の鉄門や菱櫓があったみたい。 (下真ん中)この辺りが鉄門跡
付近で、奥が菱櫓跡? (右下)榎門跡は市役所の中みたい。市役所の半分は御成厩。
鎧掛松(よろいがけのまつ)
元亀3年(1572)家康は三方ヶ原の合戦から 城に帰り、大きな松の木陰で休んだ。 そのとき、鎧を脱いでその松に掛けたことから、 鎧掛松と呼ばれている。 この松は昭和56年に元城町の人々の手により 植樹された3代目。初代は、浜松城内の 堀のそばにあった。また、当時鎧掛松近くの 清水で合戦により疲れた馬の体を冷やした 所は、馬冷(うまびやし)と言って、 その地名が今も松城町内に残っている。 (浜松市の案内板より)

市役所と本丸の間の道を南へ進み、右折すると、鎧掛松。
今昔図を見ると、この辺りに中土手があったみたい。
本丸
普通の城は天守閣を取り囲むように本丸が 配置されているが、浜松城の場合は天守閣の 東、約17m下に造られた。 周囲を石垣で囲み、南に正門である鉄門 があった。北には富士見櫓、南東の隅に二層の 菱櫓を置いた。本丸内の建物についての 詳しい事は分からない。 (案内板より)

これが本丸?って思ったけど、 今昔図を見ると、こじんまりさに納得。
(左)見上げると、天守門の間からチラッと天守が顔を出してる(^^)
(左下)市役所と反対側の入口。ここから上がっていくと本丸方面へ。
(下真ん中)若き日の徳川家康公像。 (右)富士見櫓跡?本丸の石垣。

・・・浜松城は3ページにわたって紹介・・・  【1】 【2】 【3】  ■次へ→

【 静岡のもくじ 】 上へ
下にメニューフレームが出ていない場合の、top へは→ top に戻る