えひめけん のしまじょう
■能島城
駐車場=県道49号沿いに駐車スペースあり。
※他のスポット…カレイ山展望公園 ・ 村上水軍博物館
【写真】カレイ山展望公園から。
2009/5/1現在
住所=今治市宮窪町宮窪
県道49号沿い。
能島城は、伊予諸島を中心に瀬戸内海で活躍した能島村上氏の拠点的な城郭で、中世後期に機能したとされる。 能島と鯛崎島の両島全体を城郭化した城で、「海城」「山城」と呼ばれている。 村上水軍は、能島・来島・因島村上氏からなり、俗に三島村上氏と呼ばれている。 能島水軍が全盛を謳歌するのは、村上武吉が当主の時。 天文初年、武吉と宗家の吉益と対立する御家騒動が起こり、家督を奪い取ったのが武吉で、能島水軍の頭領となった。 天正期には毛利方の海上勢力の一翼として功績を挙げ、天正13年(1585)豊臣秀吉が四国を平定した後は、伊予国主となった小早川隆景の支配下に入った。 天正15年(1587)の隆景の筑前転封に伴って、能島城を退去。 その後、海賊禁止令により、村上氏は毛利氏の御船手(水軍)に転化していった。 能島は三段に削平され本丸、二の丸、三の丸があり、東の尾根には矢櫃(やびつ)、南には東南出丸がある。 北側には船だまりや岩礁にはピットも見られる。鯛崎島も頂部を削平し、曲輪が展開する。
【左】村上水軍博物館内のみやくぼ村上水軍史跡案内のパネルより。
【右】カレイ山展望公園から。
【左&真ん中】県道49号から。
【真ん中】鯛崎島。
【右】村上水軍博物館から、能島城と伯方・大島大橋。
水の谷と呼ばれる谷から流れる谷川の水は年中水の切れることが無く、この水が一の瀬の海岸に注ぐ一帯の地を水場と呼んでいる。
能島時代の水取場である。川のほとりに井戸を掘り、水を汲んで、毎日能島に運んだ。
川が海に注ぐ所から南の海岸沿いの崖岩に洞窟があった(現在貯油所敷地)石室を作って、大陸から連れてきた人や罪人等を住まわせ、使役に使ったという。
その崖の上に八基の室町期と思われる墓がある。
或歌人がそれを詠んで、
「水軍のゆかりの者か海を向き 伏目におはす野の佛達」
その背後に高く能島の出丸の跡がある。水場の水を譲る駆塞場を兼ねたものであろう。
ここからは、宮窪町全景が一目に見え、能島を眼下に見て、船折瀬戸、有津人家も見え、
鵜島、古波止を距てて燧灘を眺めることが出来る砦であった。(宮窪町の案内板より)