ふくおかけん のおがたじんや
■直方陣屋
■多賀神社、直方市体育館、多賀公園、新町北公園
駐車場=多賀神社の無料駐車場
2015/1/2現在
住所=直方市直方
この時は、九州自動車道 八幡I.Cを下りて、右の直方方面(国道200号バイパス)へ。
国道200号バイパスを南下し、県道28号へ下りる。県道28号を西へ進み、西尾信号で国道200号へ。
日の出大橋を渡って、国道200号へ左折。直方郵便局前信号で、県道467号へ右折。
多賀公園方面の県道21号へ左折、少し進んで左斜めが多賀神社入口。
神社入口の右側の道を進むと直方市体育館へ。
(案内板をクリック→拡大)江戸時代中頃(1700年頃)の直方陣屋城下町の絵図。 新町北公園に設置してあった案内板より。
元和9年(1623)、福岡藩主黒田長政は、遺言で四男高政に4万石を与え支藩を開くよう命じた。 その場所がここ直方の地で当初は東蓮寺と呼ばれていた。 東蓮寺藩には中老2人、馬回組33人の幹部を中心に、無足組、城代組などの下級武士が数百人いたものとみられる。 寛永3年(1626)に町割りが行われ、およそ現在の古町・津田町・殿町にあたる市街地が形成され、 商店が建ち並んだ。なお、東蓮寺藩の最初の陣屋は現在の双林院の場所に設けられた。 延宝3年(1675)には東蓮寺は直方に改められたが、延宝5年には3代藩主黒田長寛が福岡藩を継ぐことになり、 直方藩は一時家臣の明石助九朗があずかった。元禄元年(1688)福岡藩三男の黒田長清が直方藩の4代藩主となり、 5万石に加増され、御館山に新館を造営し、新町、門前町を開いた。 しかし、長清の嫡男が福岡藩の養子となったため、享保5年(1720)長清の死とともに直方藩は100年の歴史の幕を閉じた。 歴代藩主 初代・黒田高政(1623〜1639)、2代黒田之勝(1640〜1663)、3代・黒田長寛(1663〜1677)、4代黒田長清(1688〜1720) (直方市の案内板より)
【左】直方市体育館の西側の道路沿いに立つ城址碑。
【真ん中】植え込みの中に城址碑が立つ。
【右】直方市体育館からの景色。体育館が陣屋跡なのに、建物を写してない(^^;)
【左&右】多賀神社・北から東へ下りた所の鳥居。鳥居からすっと道がのびていて気持ちがいい。
2日の初詣で人が多くて、社殿は写せず(^^;)境内には、句碑や歌碑が置かれていた。
【右】線路側から多賀神社方面。
【左】多賀神社の北東付近で、最初に陣屋が置かれた雙(双)林院。
【右】多賀神社への階段から。道沿いの建物奥が雙(双)林院。
【左】多賀神社南東の石炭記念公園。写真は線路を挟んで。蒸気機関車が見える♪
【真ん中】石炭記念公園の室外の展示物を見学後、多賀公園と多賀神社との間の道へ。
【右】真ん中の写真奥の電柱横に見られた石垣。名残なのかな?
【左】石炭記念公園から進むと、赤い橋が見えてくる♪
【真ん中】赤い橋をくぐると、正面が市民球場。
【右】市民球場側から。
【左】多賀公園側から多賀神社方面。
【真ん中】見下ろして。堀切なのかな?
【右】橋を渡った所に石垣が…。
【左】市民球場の南東側。写真左の奥を進むと石炭記念公園へ向かい、赤い橋が架かる。
木の右側の遊歩道を上がると多賀公園へ。赤い橋を渡ると多賀神社へ。
【真ん中】多賀公園へ向かう坂道。結構キツイ(^^;)
【右】多賀公園で、多賀児童遊園地の表記もあった。ここから下った所にも公園があった。