【加納城 その1】

・・・加納城は2ページにわたって紹介・・・  【1】 【2】  ■次へ→

岐阜県 加納城  ぎふけん  かのうじょう
■加納城=見学自由(※時間帯に注意。)
■加納公園
駐車場=無料駐車場       (2008.10.13現在)
住所=岐阜市加納丸之内、他
この時は、岐阜駅方面から国道157号を南下し、 県道1号へ左折。この時は、臨時駐車場だったので、 加納城南通1信号の次の道を左折、その先が城跡だった。 (※加納城南通1信号を左折すると、加納城の周りをグルリと 回ることができるけど、臨時ではない駐車場がどこに あるかは「?」。)

加納城 (地図をクリック→拡大)
加納城は、徳川家康が慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の後、 豊臣方の巻き返しに備えて、築城を命じた城である。 北から南へ5つの曲輪(三の丸、厩曲輪、 二の丸、本丸、大藪曲輪)があり、それらは堀と川に囲まれ、 「水に浮かぶ城」という景観であった。また、石垣などは 関ヶ原合戦で落城した岐阜城から運んだと伝えられている。 初代城主は、徳川家康の長女・亀姫の婿・奥平信昌で、10万石 が与えられ、また、亀姫の粧田として2千石を給した。 それ以降代々の城主は、譜代大名が勤めた。 加納城歴代城主は、奥平氏(3代)の後、大久保氏(1代)、松平(戸田)氏(3代)、 安藤氏(3代)と変遷し、最後の永井氏(6代)の時代に明治維新を迎えた。 明治2年、加納城第16代城主、永井肥前守尚服(なおこと)が版籍を 奉還し、加納藩は同年7月14日に、廃藩に至った。 明治維新の後、建物はすべて取り壊されてしまい、堀も埋められ、 今では、本丸の石垣と土塁、二の丸や三の丸の北側石垣や、 三の丸北東部分に当時を偲ぶことができる。
本来の本丸の出入り口である大手口は、東側凸字型に出っ張った 部分にあった。これは「外桝形」という、徳川氏が初期に作った 城の特徴といわれる形である。 昭和58年(1983)に本丸が国の史跡に指定されてから、 発掘調査差が行われ、江戸時代の加納城の地面の下に、 戦国時代の加納城の土塁が埋もれているのが確認された。 また、本丸の堀の底には「堀障子」と呼ばれる畝状の 仕切りがあったことも分かった。
城下町は、加納城の北から西にかけて造られた。 町の北部を「中山道」が東西に通り、寛永11年(1634)には 「加納宿」が設置され、城下町と宿場町が1つになった。 岐阜と名古屋を結ぶ「尾張街道」(岐阜街道、御鮨(おすし)街道)が 町の東で中山道と交差する交通の要衝でもあった。 町の北西部と南西部に寺社が集中して置かれ、城の北と西側一帯、 北の町外れにも武家屋敷があった。
美濃傘と呼ばれる「和傘」の生産は、宝暦年代(1760年頃)、 当時の藩主永井氏が、財政の助けとするため奨励し、武士と町民の 分業作業として発展した。明治以後も加納の伝統産業として、 受け継がれてきている。(案内板より・絵図も)
大藪曲輪跡への橋跡と堀跡
(左)本丸側から大藪曲輪方面。アスファルトの部分が橋跡。 (真ん中)橋跡から見た西側の堀跡は、低くなっていた。
(右)反対の東側の堀跡は、臨時駐車場(H20.10月時点)になっていた。 手前は愛車、その前には本丸南側の石垣。
本丸南側の石垣 臆病門跡 臆病門跡と桝形と櫓門跡
(左)橋跡から本丸南側の石垣♪ (真ん中)ここから城主が逃げ出すのは臆病…というところからこの名らしい(^^;)
(右)臆病門から入って、桝形を通って右側へ向かうと、櫓門があったらしい。 今では何も無い状態だけど(^^)
本丸南西の二重櫓跡 本丸西側の二重櫓跡付近? 本丸西側の土塁
(左)本丸南西隅の二重櫓跡。 (真ん中)本丸の西側の二重櫓跡って、この辺りかなぁ? (右)ズズイと土塁が続く。
本丸西側の石垣(北→南へ)→本丸南側の石垣
上の写真と逆方向で紹介。 (左)この付近が、本丸西側二重櫓付近かなぁ? なんて写してみたんだけど(^^;)
(真ん中)ズズッと石垣や土塁が続き、右へ向かうと…。 (右)本丸南西隅の二重櫓跡(左端)。そして、本丸南側へ。
天守台
本丸北西の天守台。天守が建てられたかどうかは、 分からないんだとか。  (真ん中)天守台上。 (右)高い土塁!
天守台を外から。 (左)本丸北側の石垣と天守台(右端)。  (真ん中)木で覆われ過ぎ…(^^;)  (右)近付いて♪

・・・加納城は2ページにわたって紹介・・・  【1】 【2】  ■次へ→

【 岐阜のもくじ 】 上へ
下にメニューフレームが出ていない場合の、top へは→ top に戻る