龍野城
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龍野城は、明応8年(1499)に、鶏籠山山頂に赤松一族によって築かれ、
赤松村秀が最初の城主となり、この地方を治めていた。
赤松氏は、政秀、広貞、広英と城主になり、4代78年続く。
天正5年(1577)、天下統一を目指していた織田信長は、
播磨、中国地方を平定するため、家臣の羽柴秀吉に播磨攻めを命ず。
秀吉軍は2万の大軍で揖保川まで攻め寄り、この様子を眼下に見た
赤松広英は、赤松の滅亡を憂い、城を明け渡し秀吉の軍門に
くだる。(のちに、赤松広英は、但馬の国和田山、竹田城主となる。)
龍野城は、蜂須賀正勝、福島正則、木下勝俊、小出吉政など
秀吉の最も信頼する重臣達が、代々城主となる。
その後、1598年頃に山頂の城を取り壊して、麓の現在の地に城が
築かれたといわれている。
徳川の時代になると、播磨一国は池田氏の領地となり、
龍野には城代が置かれる。元和3年(1617)姫路城に本多忠政が入ると、
龍野藩主として二男本多政朝が入城、兄、忠刻の死により、
姫路城主に移る。
その後も、小笠原、岡部、京極と続き、万治元年(1658)
京極高知が丸亀へ移った後、14年間幕府領となり代官によって支配されていた。
この為、寛文12年(1672)脇坂安政が5万3千石で信州飯田より入部した時には、
城、侍屋敷も壊され「城郭の地ことごとく土人の田畑となるありさま」で、
安政自身も城下の商屋を居館とし、1年余りで城を再建した。
時代は既に太平の世でもあり、元々、外様大名でもあったので、
幕府の嫌忌に触れることを恐れ、鶏籠山麓の御殿式の築城に
決したといわれ、そのため城郭というより武装化した邸宅と
考えればよいであろう。
以来、10代藩主脇坂安斐(やすあや)まで続き、明治4年
(1871)廃藩置県を迎えた。
※脇坂氏初代の安治は、豊臣秀吉の配下で、賤ヶ岳7本槍の1人して
活躍した武将。
(龍野市の案内板より)
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埋門の前の道 |
歴史文化資料館 |
輪違紋入庭石 |
(左)埋門の前を右へ進むと、歴史文化資料館。
(右)御殿の庭石として使われたもの。(龍野藩江戸上屋敷跡出土)
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城址碑 |
埋門 |
埋門(内側から) |
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(左)埋門桝形から本丸方面。
(真ん中&右)本丸から見たもの。
結構大きいから、写すのに大変だった(^^;)
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本丸 |
明治末に、城内に女学校が置かれた時、
新たに進入道路が新設される等、大きく変わっているらしい。
これもかな↓
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本丸御殿 |
本丸御殿の中に、龍野城のパンフがあるので嬉しい(^^)
(真ん中&右)蟇股?表が輪違紋で、裏が桔梗紋。
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室内もなかなか素敵で、龍の襖絵も迫力。
中庭があったりと、落ち着いた雰囲気(^^)
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襖に、キラキラと脇坂氏の紋が。 |
和室の他、洋室もあったりする…。 |
兵庫県マスコットのはばタン。 |
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隅櫓 |
パンフの縄張図や城下町絵図では、櫓は書かれてないんだけど…?
でも、石垣とのセットは、格好いいなぁ〜(^^)
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裏門(鍜坂門…しころざかもん) |
復元された裏門(鍜坂門)。
(左)外側。(真ん中&右)内側。
山側付近に、龍野古城の登山口がある。
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裏門から |
裏門方面 |
瓦 |
(左&真ん中)裏門から隅櫓の下の道。石垣と土塀が
いい感じ〜♪(右)桔梗紋と輪違紋。
各所で見られる。
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聚遠亭(しゅうえんてい) |
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この茶室は、安政年間(1854〜1859)
龍野藩主脇坂安宅公が、京都所司代
の職にあって、御所が炎上した際、
その復興に功績があったので、孝明
天皇から茶室を賜り、心字池に浮堂
として移築したものといい伝えられ、
庭園、池、杉垣などと調和し、桃山
時代の書院造を模した風雅な数奇屋
風の建築物である。(案内板より)
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龍野藩主脇坂氏上屋敷跡 |
この建物は、藩主脇坂家の「御涼所」で
質素勤倹の風の中にも雅味のある接客、
居住部門などの間取りや、意匠と構造に
特徴があり、また床下の抜け穴等にも当時の
面影を残している。(案内板より)
こちらも、聚遠亭に。鬼瓦に脇坂氏の輪違紋が。
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旧脇坂屋敷跡 |
(左&真ん中)旧脇坂屋敷跡。公園化して回遊できるんだけど、
チラッとだけ(^^;)石垣は昔のもの?後世のもの?
(右)右側が、旧脇坂屋敷跡。この辺りは武家屋敷跡で、
城下町らしく白壁の土塀が素敵。家は、普通だけど(^^;)
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