兵庫県 龍野古城 |
■龍野古城(別名=朝霧城)=見学自由 ■鶏籠山 駐車場=龍野歴史文化資料館 (2008.10.31現在) |
住所=たつの市龍野町 この時は、山陽自動車道 龍野I.Cを龍野市街方面の 右へ下りて、県道29号へ。少し走って富永信号で国道179号へ左折。 橋を渡って、龍野橋西詰信号を右折、次に龍野旭橋信号を左折、 そのままずっと進んでいくと、検察庁(裁判所)に突き当たる。 そこを右折し、また右折すると龍野歴史文化資料館。 龍野城の裏門(北西辺り)に登山口がある。 (※橋を渡って右折して、左折してからのアクセスが、 道が狭くて大変だったので、違う道の方がいいかも(^^;)) |
龍野古城 | ||
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原始林に包まれた「鶏籠山(けいろうざん)」は鶏の伏せ籠に似たような山だったので、
その名が付けられたといわれ、山頂には、今もなお風雪に耐えてきた
城の石垣などが残っている。
山頂の城は、明応8年(1499)に赤松一族によって築かれ、
赤松村秀が最初の城主となり、この地方を治めていた。
赤松氏は、政秀、広貞、広英と城主になり、4代78年続く。
天正5年(1577)、天下統一を目指していた織田信長は、
播磨、中国地方を平定するため、家臣の羽柴秀吉に播磨攻めを命ず。
秀吉軍は2万の大軍で揖保川まで攻め寄り、この様子を眼下に見た
赤松広英は、赤松の滅亡を憂い、城を明け渡し秀吉の軍門に
くだる。(のちに、赤松広英は、但馬の国和田山、竹田城主となる。)
龍野城は、蜂須賀正勝、福島正則、木下勝俊、小出吉政など
秀吉の最も信頼する重臣達が、代々城主となる。
その後、1598年頃に山頂の城を取り壊して、麓の現在の地に城が
築かれたといわれている。
(徳川時代となり、麓の城は、元和3年(1617)龍野藩主として
本多政朝が入城し、藩主が入れ替わりながら、藩主脇坂安斐(やすあや)、
明治4年(1871)廃藩置県まで続く。) 龍野古城は、自然の地形を利用した城で、標高211.8mの山頂に、 城の要となる本丸が築かれ、本丸の側には、守護神八幡宮が建てられ ていた。 さらに、本丸より南の小高い部分には、二の丸が築かれていた。 石垣は、野面積みの技法を用い、腰曲輪、帯曲輪を重ねており、 削平地には、兵営、矢倉、米倉などが配置されていたと思われる。 また、敵の攻撃を防ぐため、土塁を巡らしたり、物見台を設けたり、 竪堀、横堀などが作られていた。 その他、弓矢に利用されていた矢竹が群生している。 (霞城文化自然保勝会・兵庫森林管理者の案内板より・絵図も) |
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鶏籠山の遠景 | 入口 | 登山口 |
遠景を見ると、躊躇する(笑) でも、せっかく龍野城まで行くしね。 |
ネットは、小動物が出ない為のもの。 入口にパンフがあるので便利(^^) |
案内板のある分岐点(古城大手 道と紅葉谷)の手前は広かった。 |
古城大手道 | 勾配が… | 登って… |
土塁もあって素敵な道♪…なんだけど、勾配のある道を登り、 途中で平坦になるものの、またすぐ勾配の連続(^^;) | ||
石がゴロゴロ | 腰曲輪のような… | 土塁 |
(左)時には石がゴロゴロした所も。 (真ん中)腰曲輪っぽい雰囲気。 (右)土塁が巡っていたけど、写真で分かるかな。 | ||
削平地 | ||
こういった削平地や土塁が多いので、見るのも大変! 右は土塁上からで、とてもきれい。どんな倉があったのかな。 | ||
削平地 | 二の丸の土塁 | 石積み? |
何度も削平地を見たから、そろそろ二の丸では!?と思ったのが、 左の写真(笑)二の丸はもう少し先だった(笑) | ||
二の丸 | ||
(左)こじんまりとした感じ。 (真ん中)眺望は微妙かな(^^;) (右)本丸へ向かう前に、二の丸の土塁を振り返って…。 | ||
見上げると… | 石積み | 矢竹 |
二の丸から本丸方面へ、土塁を見上げながら進んでると、
素敵な石積みが(^▽^)思わずここから登ってしまった(笑) まともな道を歩く相方が来るまで、この上の削平地で待ってたら、 10月下旬なのに、生暖かい空気が…(@@)怖っ! |
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削平地&石積み | ||
ここの削平地からは、土塁に石積みが見られて嬉しい(^^) (真ん中)左の写真の左側。(右)左の写真の正面。 | ||
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