トロとまったり・tripのページ(高山城 その1)

鹿児島県 高山城

かごしまけん こうやまじょう

■高山城(別名=高山本城、山之城)=見学自由
■駐車場=無料駐車場(本城集落センター・旧本城小学校跡)
(写真)本城橋付近の城址碑と遠景。

2012/4/30現在

住所=肝属郡肝付町新富
この時は、県道554号、県道542号、県道561号の交差点で、 県道561号を東へ進み、本城橋を渡り(左側に城址碑がある)、 進んでいくと左側に本城集落センター・旧本城小学校跡がある。 (高山城跡の案内があり)

高山城

高山城は、高山本城または山之城と称し、天正8年12月第18代兼道が阿多に移されるまで肝付氏の居城だった。 築城時期については諸説があるが、不落の名城だった。 文献の上では肝付兼久が叛いたといって、島津氏11代忠昌が自ら柳井谷に本陣を構えて、 永正3年8月6日から10月12まで攻撃したが、攻略できなかったという記録がある。 高山城は、東方は国見連山に連なり、南と北は渓谷を隔てて、小高い丘陵地帯となっている。 城の正面は西南に向いている。城内は本丸・二の丸・山伏城・奥曲輪等が空堀で区画され、 大来目神社・桝形・馬乗馬場・湯沸場・球王麻(王+麻。字が無いので…。) 屋敷・土塁・搦手・岩石をくり抜いた切り通し・大手門等がある。 また、城の西側の低地には、士小路・弓場地・馬乗馬場があり、総面積50haの大規模な城であった。 (文部科学省・高山町教育委員会の案内板より・絵図も)

本城橋
高山城跡碑
駐車場入口

【左】帰り際なので城とは逆方向。雨が降っていて暗い(^^;)
【真ん中】本城橋付近に、城址碑がある。
【右】「自顕流発祥の地」の看板の背後の赤い消火器の所が、駐車場(本城集落センター・本城小学校跡地)入口。

大手口

【左】駐車場から大手口方面。写真左寄りの白い点が大手口。
【真ん中】大手口。
【右】大手口から駐車場方面。

大手口から湯沸場へ

【左】大手口から、土塁の間の細い道を進む。
【真ん中】振り返って。
【右】進むと、鬱蒼として少し怖い雰囲気に…。

湯沸場(茶汲場)

怖い雰囲気にドキドキしつつ向かうと、ど〜んと巨大な石が(@@)

お湯を沸かすために、儲けた場所。高山本城古絵図に「茶釜」とあり、本丸西側下段に当たる。 この場所からは、士小路、弓場地、馬乗馬場及び西南一帯が一望され、武士達が一服しながらも警戒の眼を離さなかった。 昭和初期までは、煤の色が鮮明に残っていたが、その後、豪雨にさらされ、土砂が堆積して、昔の俤(おもかげ)は薄れてきた。 (高山町教育委員会の案内板より)

大手口から大来目神社方面へ

【左】大手口から大来目神社方面へ。
【真ん中】赤い鳥居の右側に、大来目神社への石段がある。
【右】振り返って。

大来目神社の下側

大来目神社は、一説に高山城築城の時、城の鎮神として創建されたと伝わる。 大来米命は、桓武天皇御東征の折に肝付氏の祖道臣命ともに軍功があった。 大久米氏は常に大伴氏(肝付氏)とは一体となって活動した。 本殿跡(石祠)は、昔の山伏城に近接し、水門、馬乗馬場、士屋敷等を看守できる高所にある。 (肝付町教育委員会の案内板より)

【左】鳥居をくぐると、石祠がポツンと…。
【真ん中】雨が降ってるし、上がらなかった。
【右】空堀っぽい雰囲気。

球王麻(王+麻)屋敷跡

大来目神社下側の石祠の奥の少しだけ高い土塁上が屋敷跡。

永正3年(1506)島津忠昌が高山城を攻めた時、肝付氏の援護としてかけつけた人吉の相良氏の武将達が籠城した場所。 それ以来、この場所を球王麻(王+麻)屋敷と言うようになった。(案内板より)

大手門跡

【左】案内板がある。 【真ん中】振り返って。
【右】大手門跡から先を。すぐ先の左側に、山伏城跡への道がある。

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