松阪城
(左上の写真をクリック→拡大)
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松阪城は蒲生氏郷が天正16年(1588)この四五百森(よいほのもり)に構築した平山城である。
氏郷が会津若松へ移封後、天正19年(1591)服部一忠、文禄4年(1595)古田重勝
と城主が変わり、元和5年(1619)紀州藩領となって、勢州領18万5千石を
統轄する城代が置かれた。
城は北東に大手(大手門…四つ足御門)、
南東を搦手(搦手門…竹御門)とし、
本丸・二の丸・隠居丸・希代丸(きたいまる)・
出丸・三の丸より成り、本丸・二の丸・希代丸・隠居丸・出丸には高い
石垣を築き、三の丸の外郭に水堀をめぐらせていた。
三層の天守閣と金の間・月見・太鼓等の櫓がそびえ立っていたが、
正保元年(1644)の台風で天守閣は倒壊したと伝えられている。
また二の丸には、寛政6年(1794)に建立された徳川陣屋があった。
明治14年(1881)城跡公園となる。
(松阪市教育委員会の案内板より・縄張り図も)
■石垣・・・石垣を築く工法はいくつかあるが、松阪城の場合は、自然の石を
積み上げる野面積を主体とし、水はけと堅固さを重視した。隅部は美観に重点を置き、
という工法が取り入れられている。
■竹薮と梅林・・・長期戦に備えて、城内に竹薮と梅林があった。
竹は防御とともに槍や弓矢に使うため、梅林は食料用のもので、
松阪城の梅林は桜とともに名所になっている。(案内板より)
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堀と土居 |
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松阪城を取り巻く堀は、総延長が2100m。堀の構造は標準型といわれる
もので、図の様になっている。大部分は水堀だが、一部、松阪工業高校
東隅から第一小学校付近までの区間は空堀であった。幅はほぼ20m、
しかし、市役所の前辺りは30m余もあった。
土居(土塁)は、堀の内側へ防御の為土を高く盛り上げたもので、堀を掘った
土で築かれた。土居の表面に芝生を植え土居の下幅(敷・しき)は15m前後、
高さは6m前後で、大手門のあった付近(市役所横)の敷は19m余もあった。
明治中期になり土居の土は元の堀に埋められ、田畑、
宅地等に転用された。(案内板より・絵図も)
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大手筋(市役所方面) |
市役所 |
大手門跡(松阪城方面) |
■大手筋&大手門跡…
鈴天食堂から市役所前に至る道は、城の玄関口ともいうべき大手筋にあたる。
市役所駐車場入口前の横断歩道付近には明治初期まで大手門があった。
この城門は、江戸時代末期の城絵図には「四ツ足御門」(建築様式の
「四脚門」のことか)と記されている。
この大手門を潜れば、そこはかつての三ノ丸であり、鈴天食堂前から城跡に上がった所には
表門があった。
堀は市民病院の裏側にあり、今もその名残をとどめている。
(伊勢の国・松坂十楽 松坂城跡を守る会他の案内板より)
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堀跡 |
城址入口(表門へ) |
城址入口から二の丸の石垣 |
■堀跡…市役所前付近の堀跡。神道川の一部は、かつての堀の名残だが、この辺りの堀幅は17間(約30m)もあり、
その内側には土居が築かれていた。(伊勢の国・松坂十楽 松坂城跡を守る会他の案内板より)
(真ん中)市役所側から城址入口を♪
(右)城址入口から二の丸北東の石垣を。
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表門跡 |
東京国立博物館に、明治5年(1872)
に撮影された表門の古写真が残され
ている。写真により、表門は本瓦葺
2階建で階上を渡櫓とし、その下に
門扉を設けた櫓門の形式がとられ
ていたことがわかる。(伊勢の国・
松坂十楽 松坂城跡を守る会
他の案内板より)
(左)石垣が、格好いい!!
(右)本丸・下段から見下ろして。
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助左衛門御門跡方面 |
城址碑 |
二の丸へ |
(左)表門を入って右に行くと、歴史民族資料館。
(真ん中)表門を入ってすぐ城址碑。
(右)表門側から二の丸へ。
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二の丸 |
(左)雨の散策。カメラを構えるから、
傘が邪魔で仕方なかった(^^;)
(真ん中)徳川陣屋跡の碑。
(右)家ばかり…。
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裏門跡 |
(左)裏門を出て進むと御城番屋敷。
(真ん中)裏門側の入口。
(右)真ん中の写真の右側。隠居丸の高石垣が(^^)
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隠居丸 |
(左)隠居丸入口。門と本居宣長旧宅の案内があるから、
躊躇した(^^;)
(真ん中)本丸・下段の太鼓櫓跡から。
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隠居丸・米蔵跡 |
隠居丸・米蔵跡 |
本居宜長旧宅 |
隠居丸は、本居宣長旧宅が立ち、
庭園になっていた。
(左)ピンクの花びらが散ってきれい。
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中御門跡 |
(左)隠居丸跡入口付近から。凄く素敵!
右が本丸・下段の太鼓櫓の石垣。
(真ん中)上がると桝形で、中御門跡。
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