ながさきけん はらじょう
■原城(別名=日暮城)=見学自由
駐車場=無料駐車場
2010/5/2現在
住所=南島原市南有馬町
この時は、島原方面から県道251号を南下し、原城跡の案内板を左折。
※案内板がたくさん出ているので、曲がる所が分かりやすい。
【右】現在地=駐車場。 @ほねかみ地蔵。A本丸大手門(正門)跡。 B本丸櫓台跡。C天草四郎像。D天草四郎の墓碑。E池尻口門跡。
原城は、明応5年(1496)、領主有馬貴純(8代目)が築城したと伝えられ、別名「日暮城」と呼ばれている。 城は、県下最大の平山城で、周囲4km(3kmとも)、41万uの規模を持ち、有明海に面して、 南東に突出した岬を利用した要害である。城構えは、本丸、二の丸、三の丸、天草丸、出丸などで構成されている。 本丸は石垣で囲まれ、出入口は桝形となり、織田信長や豊臣秀吉の時代に完成された石積み技術が用いられ、 近世城郭の特徴を持った。その特徴は、高い石垣、建物に瓦を使用、建物を礎石上に備えていた点である。 一方、二の丸、三の丸は自然の地形を活かした土作りであった。 原城の工事は、慶長4年(1599)にはじまり、慶長9年(1604)に完成したとされる。 イエズス会宣教師の報告書は、文禄・慶長の役後に、有馬晴信が居住している日野江城よりも一層適地にして、 堅固で防御できるような新しい城を築城中であるとし、城内には晴信の屋敷のほか、 家臣の屋敷、弾薬や食糧を蓄えた三層の櫓があったと記した。 慶長19年(1614)、晴信の子・有馬直純(14代目)は、日向国臼杵郡(宮崎県)に転封され、 元和2年(1616)、松倉重政が大和五条(奈良県)から入部した。 松倉氏は、一国一城令により原城を廃城とし、元和4年(1618)からの島原城(森岳城)の築城にあたり、 構築用の石材として、この城の石垣などを運んだものと見られている。 松倉氏の藩政は、領民へ過酷な賦役と重税を課し、キリシタン弾圧など、厳しく行った為、 寛永14年(1637)10月25日に、天草四郎時貞を盟主として、「島原の乱」が起こった。 原城は、同年12月3日から寛永15年2月28日にまで、領民(天草の領民を含む)約3万7千人(2万7千人ともいわれている)が、 88日間立て籠もった「島原の乱」の終焉の地である。 平成4年(1992)から実施している発掘調査によって、本丸地区から多くの遺構・遺物が出土した。 特に、十字架、メダイ、ロザリオの珠などのキリシタン関係遺物は、島原・天草一揆にまつわる資料である。 また、一揆後、幕府軍により壊され埋められた出入口や櫓台石垣、本丸の正面玄関に相当する出入口などが検出され、 原城築城時の遺構や島原・天草一揆に対した幕府の対応を示す資料を発見した。(南島原市の案内板より)
【左&真ん中】県道から原城へそれると、大きな「原城跡」が出迎えてくれる(^^)
【右】どんどん進むと三の丸。
【左&真ん中】三の丸にある石垣上に、板倉正重石碑が立ち、横に土塁が広がる。
【右】振り返って三の丸方面。
【左&真ん中】南三の丸方面。
【右】二の丸方面。
【左】とにかく広い!
【真ん中】左の写真から、少し右側。遠くに本丸(木がピョコッて出てる所)。
【右】本丸方面から。
この低地は、島原の乱の時に、防衛の為に築されたもので、蓮池と通じ、本丸を孤立した「島」とするため、築かれたものである。 寛永15年(1638)2月21日の夜襲軍4千余人は、食料・武器等の奪取の為、ここに終結し、黒田軍・鍋島軍等を襲撃したが、失敗に終わった。 籠城の間は、竹や木で柱を立て、「カヤ」でその上を覆い、非戦闘員(老若男女)を収容していた所である。(南有馬町教育委員会の案内板より)
【右】道を挟んだ蓮池跡。
【左】駐車場。本丸まで車で来れるのが嬉しい♪
【真ん中&右】本丸の石垣(本丸大手門付近)。
この時は、池尻口門から本丸、本丸大手門跡から駐車場へ戻った。
■本丸・石垣内隅部…石垣の上部分を取り壊し、その石や裏込め石を投げ込み、埋められていた。 埋められていた石の他に大量の瓦も出土した。 瓦の出土は、乱当時何らかの建物があったことを示唆するものであり、 廃城であったという定説を見直す大きな資料といえる。(南有馬町教育委員会の案内板より)
【左】右上の写真の真ん中。
【真ん中&右】本丸の石垣を見つつ池尻口門方面へ。
【左】左端奥が、池尻口門。石垣が格好いい!
【右】逆に、駐車場方面。上で紹介した石垣が、一気に見えて素敵♪