ながさきけん ひのえじょう
■日野江城=見学自由
駐車場=あり(本丸側はスペース)
2010/5/2現在
住所=南島原市北有馬町
この時は、島原市方面から国道251号を南下、県道30号へ右折。
少し先の小さい川を渡って右折し(案内あり)進むと、右側に説明板と駐車場、左側に登り口がある。
こちらが大手口で、上がると二の丸。本丸側へは、県道30号をもう少し先へ進み、案内板に従って右折。
整備された道から山道を進むと、複雑な交差点があり、急な右カーブ方面(目印は、裏口の石碑)へ。
後は、車1台分の狭い道をひたすら進むと、駐車スペースに到着。
(ちなみに、二の丸から道なき道を上がれば本丸に行くことも可能。逆もしかり。)
日野江城は中世から江戸時代の初めにかけてこの地域の領主であった有馬氏の居城であり、14世紀の南北朝時代に築かれたと伝えられている。 城は、標高78m付近の本丸、東を二の丸、北西を三の丸とした、梯郭式或いは連郭式の構造を持つ平山城と考えられ、大手口は二の丸にあった。 本丸北方の尾根つづきには堀を巡らし、西側に裏口川、東側には大手川があって守りを固めた。また川を通じて海へと続く水運に直結していた。 築城以降、勢力を拡大していった有馬氏は、1550年代には島原半島から肥前東部一帯21万石を領有した。 また、現在の長崎県、佐賀県に十一城(といちじょう)とよばれる支城の連絡網を張り巡らせ、広大な領域を支配した。 第13代当主の有馬晴信は天正7年(1579)洗礼を受けキリシタン大名となった。 1580年、イエズス会の中等教育期間「有馬のセミナリヨ」が有馬の城下町に創立された。 1582年には卒業生による日本初のヨーロッパ派遣団「天正遣欧少年使節」がローマに派遣され、4少年は8年半を要し帰国した。 帰国の際、日野江城跡で8日間にわたる報告会が催され、完成したばかりの屋敷に案内された時の様子が、イエズス会年報で 「大小の部屋は全て黄金の品や典雅で華麗な絵画で飾られていた。 この屋敷は、最近有馬殿の手で建てられ見事な出来ばえとなった城郭の中にある。」と報告されている。 また文禄4年(1595)に城を訪れたイスパニア(スペイン)商人アビラ・ヒロンは、城内には幾つもの部屋や茶室、庭園があったと詳しく記した。 豊臣秀吉の天下統一以降、有馬氏は、豊臣秀吉、そして次の天下人である徳川家康の臣下となり、 島原半島4万石を支配するにとどまるのだが、有馬氏が行ってきた南蛮貿易や、キリスト教の保護政策は、 有馬にヨーロッパなどからの様々な文物や文化をもたらし、国際交流の最先端地を形成させる事になったのである。 出土遺物には、14世紀から16世紀の国産陶器とともに、中国や東南アジアで焼かれ、貿易によって運ばれた外国産の陶磁器が多く含まれていた。 また上薬をかけずに焼いた素焼きの土師器(はじき、かわらけ)も数多く出土した。 土師器は儀式や酒宴に用いたもので、有馬氏と家臣達が儀式を通じて結びつきを深めた事を物語る。 また、豊臣系の城郭で流行した金箔瓦も出土する等、中央政権からの影響も現れている。(案内板より・絵図も)
【左】二の丸下側の大手口。写真右側に駐車場。
無断駐車禁止の看板があったけど、案内板にはPと書かれていた。
【真ん中】大手口の坂道にある城址碑。
【右】急坂を上がると二の丸で、1番最初で紹介した写真の石垣がある(^^)
【左】1番最初の写真と同じ石垣。
二の丸の発掘調査では、破壊され埋められていた石垣や階段遺構多くの陶磁器などが出土した。見つかった階段は直線で100m以上に及んだ。 大手口推定地から本丸下までを石段で一挙に駆け上がる構造は、織田信長が築いた滋賀県の安土城大手道にも類似した。 階段の北側からは、石塔が多く出土した。宝篋印塔や五輪塔などの仏教式の墓石を階段に再利用していた。 有馬氏が仏教を拝してキリスト教を保護した事と、その権力の強さが伺える。この階段の袖には、切石を使った石垣も出土した。 当時の城では類を見ない独特な技術で、南方の地域との交流を物語る貴重な資料である。(案内板より)
【左】埋め戻された階段。確かに、安土城みたい!
【真ん中】段々になった二の丸。
【右】本丸方面から。
二の丸側(大手口)から本丸へ行けないらしいので、山側の道を進んで、本丸へ向かうことに。
【左】分岐では、急な右カーブへ。
【真ん中】分岐の目印は、裏口の石碑。
【右】車1台分の狭い道を進むので注意!
【左】2〜3台分のスペース。後ろは崖!注意!
【真ん中】左側が北の丸方面、右側の道が本丸方面。
【右】北の丸。
【左】駐車スペースから本丸方面へ少し進むと、土塁に石垣が見られた♪
【真ん中】振り返って。
【右】曲輪内。