【大和郡山城 その1】

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奈良県 大和郡山城  ならけん やまとこおりやまじょう
■大和郡山城=見学自由
駐車場=追手東隅櫓と追手門の前にスペース有り
                   (2006.3.19現在)
住所=大和郡山市城内町
この時は、西名阪自動車道 郡山I.Cを下りて、国道24号を奈良市方面へ進み、 杏町交差点を県道41号へ左折。次に、県道9号の奈良口信号を左折、 そのまま県道9号を進んで、北郡山交差点を右折。 次に、左斜めに櫓や石垣が見えたら、線路を渡らず、その手前の道を左折し、 少し先に右折する道があるので、線路を渡る。鉄御門跡を通って、 すぐ斜め右に、車1台分くらいの細道があるので、そこを進むと追手東隅櫓と追手門。 その前に駐車スペースがある。

郡山城跡 (案内図の写真をクリック→拡大)
郡山城は、天正6〜7年(1578〜1579)に筒井順慶が縄張りを行い、 同8年の一国一城令に基づき拡張、同11年には天守閣も完成をみた。 同13年、豊臣秀長が入部して更に拡張され、文禄5年(1596)には 増田長盛による秋篠川の付け替えが行われ、外堀を一周させ、 城下町の完成をみるに至った。 関ヶ原戦後、長盛が改易され、大坂夏の陣以降、水野勝成、 さらに松平、本多が入城し、享保9年(1724)以降、幕末まで、 柳沢15万石の居城として栄えた。 現在残る縄張りは、秀長時代のもので、左京堀、鰻堀、 鷺堀で囲まれた本丸、二の丸、三の丸等が城内で、それ以外の 外堀に囲まれた地域が城下となる。 尚、史跡として指定されているのは、本丸、毘沙門曲輪、法印郭、 玄武郭、陣甫郭及びその内堀である。(奈良県教育委員会の案内板より)
郡山城ならびに追手門(梅林門)の由来
筒井順慶が織田信長の後援によって、松永弾正久秀を破り、宿願の大和統一の 偉業を成し遂げて、天正8年(1580)11月12日郡山に入り、築城に着手している。 しかし、本格的な郡山築城は、天正13年(1585)9月に、大和、和泉、紀伊 三ヶ国の太守として豊臣秀長が知行高百万石をもって入城してからの 事である。その時、追手門もこの場所に築かれたものと思われる。 秀長亡き後養子秀保、増田長盛と受け継がれたが、慶長5年(1600)関ヶ原の 戦いが起き、長盛は豊臣傘下として西軍に味方し大坂を守った。 戦は西軍の敗北となり、郡山城は徳川方に接収されて、城は取壊しとなり、 建物の全ては伏見城に移された。廃城となった郡山の地は、代官 大久保石見守長安、山口駿河守直友、筒井主殿頭定慶らが相次いで城番と なり、預かっていた。 慶長19年(1614)大坂冬の陣が起こり、藤堂高虎は12月25日郡山に 着陣し、戦闘配置に就いたものの、東西の和議が整い事なきを得た。 翌元和元年(1615)4月大坂夏の陣の際、時の城番筒井主殿頭は大坂方の 誘いを断り、徳川方に味方したので大坂方の攻撃にあい、福住に 逃れた。5月8日、大坂落城を知った定慶は、士道に恥じて切腹して 果てたと言われている。 戦後の論功において戦功第二となった水野日向守勝成が、六万石をもって 郡山に封ぜられたけれど、城郭は全く荒れ果てていたので、石垣や堀の 修築は幕府直轄事業とし、本丸御殿、家中屋敷などの家作は勝成の手で 普請を進めた。しかし、在城僅か5年で備後福山城に移され、かわって、 戦功第一の論功を受けた大坂城主松平下総守忠明が、元和4年(1618) 10月、十二万石をもって郡山城主となった。その時城には十分な建物と てなく、家康の命によって諸門を伏見城から再び郡山に移したので、 近世郡山城の偉容は整った。追手門もその1つで、当時はこの門を 一庵丸門と呼んでいた。その後、本多内記政勝、政長、政利、 松平日向守信之、本多下野守忠平、能登守忠常、信濃守忠直、唐之助忠村、 喜十郎忠烈と続き、忠烈、嗣無く本多家は断絶となった。 享保9年(1724)3月11日、禁裡守護の大任を帯びて、十五万石余を もって甲府城から郡山に移封なった柳澤甲斐守吉里は、一庵丸門を 梅林門と名を替え、城は美濃守信鴻、甲斐守保光、保泰、保興、 保申と受け継がれ明治維新を迎えて廃城となり、全ての建物は 取り払われてしまった。近時、郡山城復興の声が高まり、第一次として 市民の手による追手門が秀長築城にふさわしい姿で復元された。 (大和郡山市の案内板より)
鉄御門跡 鉄御門跡から土橋
下の五間屋敷堀にも写っている鉄御門から長く続く石垣は凄い!
五間屋敷堀 蓮池堀跡かな 入口
鉄御門の手前の堀。 反対側はこんな感じで石垣が続く。 鉄御門を過ぎてすぐ右に入る。
追手向櫓 内堀
写真の内堀の左側が毘沙門曲輪、右側が陣甫曲輪。この道は車1台分しかない 狭い道で少しドキドキ(笑)
細道を通って… 石垣付近に駐車スペース 毘沙門曲輪の石垣
堀横を通って、細道の突き当りに駐車スペースがある。 ちょうど、追手向櫓や追手門がある石垣の所(^^)
追手向櫓 追手門(梅林門)
凄く立派で、そして大きい!追手向櫓と追手門を一緒に写そうとすると、 かなり後ずさりする(笑)
追手東隅櫓 追手門(梅林門)を内側から
追手門から続く石垣から見上げると追手東隅櫓(^^) 横の土塁でもわかるけど、曲輪が高い位置にある。
追手門にあった紋 久御門跡 毘沙門曲輪跡
追手門をくぐってすぐ左側に久御門。ここを入ると毘沙門曲輪へ。奥へ進むと東屋がポツンとあった(^^;)
追手向櫓
追手門(梅林門)を守る為の櫓で、本多氏時代(1639〜1723) は大手先艮角櫓と呼ばれていた。 追手向櫓と呼ばれるようになったのは、柳沢氏入城後(1724) のことである。 櫓は明治6年に取り払われたが、記録によると、下重(1階)は 四間二尺に五間、上重(2階)は二間四方の二重櫓であったと伝えられている。 (大和郡山市教育委員会の案内板より)
毘沙門曲輪と本丸の間の内堀 極楽橋跡
このダイナミックな内堀、石垣、ホレボレ〜(^^) それにしても、極楽橋って名前が凄いなぁ。
追手東隅櫓
この櫓が今の名に替えられたのは、柳沢氏入城後で、 それまでは「法印斜曲輪巽角櫓」(ほういんななめのくるわたつみすみやぐら) と呼ばれていた。 豊臣秀長入城時(1583)に筆頭家老で5万石を食んでいた桑山一庵法印良慶の 屋敷がこの曲輪に構築されていたので、この曲輪を法印郭(曲輪)または 一庵丸と呼ぶようになった。 古絵城図によると櫓は二重で、下重が二間五尺に三間二寸五分、 上重が二間二尺に二間五尺、(この時の一間は六尺三寸・ 197cm ) 郡山城の櫓の中では一番小型に属している。 構造としては窓が5つ、石落としが2ヶ所、鉄砲狭間が6ヶ所設けられていた。 古絵城図のなかに、この櫓の図の肩に「今太鼓櫓」と註記されているのがわかる。 これは当時櫓に、太鼓を据え付けて刻を知らせたり、変を知らしていた為である。 (大和郡山市教育委員会の案内板より)
(右)追手東隅櫓から追手向櫓を見たもの。
追手東隅櫓から続く東多聞
追手東隅櫓の瓦 東多聞の奥にも 桜門方面を見る(工事中)
東多聞の奥へ進むと、土塁の上にも塀。その裏側に回ると、 五間屋敷堀に土塁と石垣が延びていた。
左京堀(工事中) 玄武曲輪?の端の土塁
玄武曲輪がよく分からなくて、外堀に沿った曲輪と いう事でいいのかな?とすると、この辺りからなのかな?
市民会館
この建物は、もと県立奈良図書館として、明治41年、奈良県技師橋本卯兵衛氏の 設計により建てられた木造瓦葺二階建、外観は、日本古代建築を模した堂々たる 建物だった。 このような由緒ある建物と財団法人柳澤文庫の協力を得て、昭和45年4月ここ 郡山城址法印郭に移築し、内部改造を加え市民の集会等に利用されている。 (案内板より)  鬼瓦が凄い(^^)

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