奈良県 大和郡山城 |
■大和郡山城=見学自由 駐車場=追手東隅櫓と追手門の前にスペース有り (2006.3.19現在) |
住所=大和郡山市城内町 この時は、西名阪自動車道 郡山I.Cを下りて、国道24号を奈良市方面へ進み、 杏町交差点を県道41号へ左折。次に、県道9号の奈良口信号を左折、 そのまま県道9号を進んで、北郡山交差点を右折。 次に、左斜めに櫓や石垣が見えたら、線路を渡らず、その手前の道を左折し、 少し先に右折する道があるので、線路を渡る。鉄御門跡を通って、 すぐ斜め右に、車1台分くらいの細道があるので、そこを進むと追手東隅櫓と追手門。 その前に駐車スペースがある。 |
五間屋敷堀 | 蓮池堀跡かな | 入口 |
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鉄御門の手前の堀。 | 反対側はこんな感じで石垣が続く。 | 鉄御門を過ぎてすぐ右に入る。 |
追手向櫓 | 内堀 |
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写真の内堀の左側が毘沙門曲輪、右側が陣甫曲輪。この道は車1台分しかない 狭い道で少しドキドキ(笑) | |
細道を通って… | 石垣付近に駐車スペース | 毘沙門曲輪の石垣 |
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堀横を通って、細道の突き当りに駐車スペースがある。 ちょうど、追手向櫓や追手門がある石垣の所(^^) | ||
追手向櫓 | 追手門(梅林門) |
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凄く立派で、そして大きい!追手向櫓と追手門を一緒に写そうとすると、 かなり後ずさりする(笑) | |
追手東隅櫓 | 追手門(梅林門)を内側から |
追手門から続く石垣から見上げると追手東隅櫓(^^) | 横の土塁でもわかるけど、曲輪が高い位置にある。 |
追手門にあった紋 | 久御門跡 | 毘沙門曲輪跡 |
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追手門をくぐってすぐ左側に久御門。ここを入ると毘沙門曲輪へ。奥へ進むと東屋がポツンとあった(^^;) | ||
追手向櫓 | |
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追手門(梅林門)を守る為の櫓で、本多氏時代(1639〜1723) は大手先艮角櫓と呼ばれていた。 追手向櫓と呼ばれるようになったのは、柳沢氏入城後(1724) のことである。 櫓は明治6年に取り払われたが、記録によると、下重(1階)は 四間二尺に五間、上重(2階)は二間四方の二重櫓であったと伝えられている。 (大和郡山市教育委員会の案内板より) | |
毘沙門曲輪と本丸の間の内堀 | 極楽橋跡 |
このダイナミックな内堀、石垣、ホレボレ〜(^^) | それにしても、極楽橋って名前が凄いなぁ。 |
追手東隅櫓 | |
この櫓が今の名に替えられたのは、柳沢氏入城後で、
それまでは「法印斜曲輪巽角櫓」(ほういんななめのくるわたつみすみやぐら)
と呼ばれていた。
豊臣秀長入城時(1583)に筆頭家老で5万石を食んでいた桑山一庵法印良慶の
屋敷がこの曲輪に構築されていたので、この曲輪を法印郭(曲輪)または
一庵丸と呼ぶようになった。
古絵城図によると櫓は二重で、下重が二間五尺に三間二寸五分、
上重が二間二尺に二間五尺、(この時の一間は六尺三寸・ 197cm )
郡山城の櫓の中では一番小型に属している。
構造としては窓が5つ、石落としが2ヶ所、鉄砲狭間が6ヶ所設けられていた。
古絵城図のなかに、この櫓の図の肩に「今太鼓櫓」と註記されているのがわかる。
これは当時櫓に、太鼓を据え付けて刻を知らせたり、変を知らしていた為である。
(大和郡山市教育委員会の案内板より)
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追手東隅櫓から続く東多聞 | |
追手東隅櫓の瓦 | 東多聞の奥にも | 桜門方面を見る(工事中) |
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東多聞の奥へ進むと、土塁の上にも塀。その裏側に回ると、 五間屋敷堀に土塁と石垣が延びていた。 | ||
左京堀(工事中) | 玄武曲輪?の端の土塁 | |
玄武曲輪がよく分からなくて、外堀に沿った曲輪と いう事でいいのかな?とすると、この辺りからなのかな? | ||
市民会館 | ||
この建物は、もと県立奈良図書館として、明治41年、奈良県技師橋本卯兵衛氏の 設計により建てられた木造瓦葺二階建、外観は、日本古代建築を模した堂々たる 建物だった。 このような由緒ある建物と財団法人柳澤文庫の協力を得て、昭和45年4月ここ 郡山城址法印郭に移築し、内部改造を加え市民の集会等に利用されている。 (案内板より) 鬼瓦が凄い(^^) |
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