おおいたけん ふないじょう
■府内城(別名=荷揚城、白雉城、大分城)=見学自由
■廊下橋=8時〜18時まで見学可
■大分文化会館 ・ 城址公園
駐車場=近辺有料駐車場?(この時は城址公園内に駐車)
2011/4/30現在
住所=大分市荷揚町4
この時は、大分自動車道 大分I.Cを下りて、県道21号へ直進。
椎迫入口信号で、国道210号へ左折。国道10号との信号を過ぎて、
国道197号を走り、大分市役所前の信号を左折。右側に文化会館への入口がある。
この時は、ここから中に入って、城址公園に駐車出来た。(※常時は無理かも…?)
府内城は、慶長2年(1597)、福原直高により築城が始められ、2年後には1部が完成したが、直高の領地没収によって中断、 これに代わった早川長敏(ながとし)も、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで西軍(石田三成方)に加担して取り潰された。 次いで翌年、竹中重利が入封して築城工事を再開、石垣の築造には、熊本藩の加藤清正の援助を受けるなどして、慶長7年(1602)、 四重の天守がそびえる城郭が完成した。続いて城下町の建設が始められ、やがて東西約1.1q、南北約1qに及ぶ、豊後最大の規模を誇る府内城下町が出来上がった。 荷揚(にあげ)城とも呼ばれる府内城は、大分川の河口左岸、別府湾に接したかつての「荷落ろし」(交易地)の場所に城地を定めた。 荷揚の城名の由来は「落」の字を忌み、「揚」の字に改めたといわれている。 今は、その面影はほとんど失われているが、府内城と府内城下町は、内堀(現存)、中堀、外堀の3つの大きな堀を持ち、北は海に接して、正に水城ともいえる城だった。 また、その美しい姿から白雉(はくち)城とも呼ばれている。 城と城下町を完成させた竹中氏は、その後、長崎奉行を兼務していた重義の時に、非違を咎められて断絶した。代わって、寛永11年(1634)、 壬生城(栃木県)から、日根野吉明(ひねのよしあきら)が入封したが、後継ぎが無く、1代で断絶。 次いで松平(大給)忠昭(ただあきら)が、万治元年(1658)に、新藩主として入封、以来、明治4年(1871)の廃藩置県まで、 2万余石の譜代大名として、10代に渡る藩主によって、府内藩制が進められた。 この間寛保3年(1743)に城下に起こった大火によって、天守閣を始め城の施設が多く焼失し、以後、天守閣は再建されなかった。(大分市教育委員会の案内板より)
【左】手前が本丸で、真ん中付近に横に堀跡、右端の文化会館辺りは、縦に堀跡らしい。 この時は、こんな感じで、文化会館横が駐車場になっていたので、とめることができた(^^)
【左】本丸側から。庭園になっているから、木が邪魔で隠れ気味に…(^^;)
【左下】天守台への石段。最初、ここ?って感じの上り始めだった。
【下真ん中】天守台上。周りはビルだらけ(@@;)
【右下】本丸北側の人質櫓の背後に見えるのが、天守台。
【左】左寄りが東丸・北東二重櫓。右側の石垣の左側が、菱櫓跡(平櫓)、右側が扇櫓跡(平櫓)。
【左下】真ん中の石垣上が菱櫓跡、右側が扇櫓跡、右端にチラリ、白いのが人質櫓。石垣の形が格好いい。
【右下】この写真の左の写真から少し移動して。右端が、人質櫓。全部、1枚に収めたくなるけど、無理なんだよねぇ(笑)
【左】北側から。人質櫓の背後に、天守台がある。あまりにも存在感ある背後のビルに見入ってしまうけど、
丁度下辺りに天守台がある。そういえば、ここの城跡って、高層ビルが入ってしまう確率が高いな。
【左下】内側から。天守台も木が邪魔だったけど、こっちも…(^^;)
【下真ん中】天守台から見下ろして。天守台からの方が、よく見える。
【右下】北東から。左上の写真のアングルも好きだけど、こっちもいい感じ。
【左】人質櫓の右が北二重櫓跡。
【真ん中&右】埋立地にいるのは人…。鯉にエサをやってたみたい。
【左】西側から。石垣の下に、人柱を祀る石仏が置かれている。ちなみに、石垣手前と写っていない右側辺りが、内堀跡。
【右】北二重櫓跡の南側。石段もあったけれど、上がらず。
【左】外側。南から大手門(多聞櫓門)へ入る橋は、廊下橋だったそう。
【真ん中&右】内側。外側と変わらず…。
【左】着到櫓側から。大手門へ続く道が廊下橋跡。
【真ん中】大手門から西丸南西方面。
【右】大分県道路元標。
【左】天守台から東丸方面を。あ、うちの愛車(右から3番目の青)だ♪
【真ん中】東丸から本丸方面。横に堀があったらしいけど、埋め立てられている為、本丸との境が分からない。
【右】東丸の南側。
【左】井戸跡かな?
【右】石垣が見られた。
【左】大手門から反時計回りですぐで、写真右奥に南東二重櫓がある。
【真ん中】西丸南側から。正面が着到櫓。
【左】写真左側(木で隠れ気味)が着到櫓、南東二重櫓、右側が三重櫓跡。 ←(写っていないけど)右側が北東二重櫓。