(※ここで紹介するのは、アクセスの選択肢の1つで、自分用の覚書として詳細を。)
【切り取り加工】名護屋城の南側の国道204号を西へ。風呂尾呂信号手前の陸橋付近。
写真左前が片桐且元陣、写真右奥が津軽為信陣方面。(2019/1/4撮影)
【左】上記と同じ、風呂尾呂信号手前の陸橋付近の左側に立つ古田織部陣の標柱の横の道を左折。(2019/1/4撮影)
【真ん中】左の写真の古田織部陣の標柱横から入って、次の分岐を徒歩で右折。車は右折せず、直進した左側の駐車スペースへ。(2018/1/4撮影)
【右】真ん中の写真の分岐を正面から。(2018/1/4撮影)
【左】右上の分岐の突き当たり。丁度、陣跡の東側かな?(2018/1/4撮影)
【右】左の写真の右側。この道を進むと、国道204号に架かる橋へ。(2018/1/4撮影)
【左】左上の写真の左側を。(2018/1/4撮影)
【右】左の写真の左側方面。低めの畑付近に土塁が見られたけど、遺構かどうかは?(2018/1/4撮影)
【案内板より】片桐且元陣跡…弘治2年(1556)、浅井長政に仕えていた片桐直政の子として生まれ、幼少のころから秀吉に仕えている。 賤ヶ岳合戦では、七本槍の一人として活躍し、小牧合戦、九州平定征伐、小田原攻めと戦功を重ね、 文禄3年(1594)には、摂津茨木城主となり、1万石を領します。 また、秀吉から信望を得て、京都方広寺大仏殿の普請奉行や検地奉行を務めている。 文禄・慶長の役では、軍役200名で名護屋に在陣し、渡海の記録はない。 陣跡は、この畑の奥の山林の中にあり石垣に一部破却を受けているが、外観を意識した縄張りが行われ石垣が残っている。 (※青い案内も白い案内も同じ文面。)
【左】東側から南へ。土塁付近に大きな石があって気になった(^^)(2018/1/4撮影)
【真ん中】左の写真の道の端の案内板。…がはがれていた(^^;)(2018/1/4撮影)
【右】左の写真の案内板付近の木の枝に、別の案内がぶら下がっていた。たまたま発見。(2018/1/4撮影)
【左】案内板が立つ所から南方面を。両側に土塁があるけれど、右側が陣跡のもの?(2018/1/4撮影)
【真ん中】左の写真の右側。結構な高さのある土塁。(2018/1/4撮影)
【右】左の写真の左側。こちらは、土塁の中に石積みがあるけれど、関係あるのかな?(2018/1/4撮影)
【左】南へ進むも、右側の陣跡はよく見えず…。写真中央奥が、木下勝俊陣との分岐。(2018/1/4撮影)
【真ん中】進んだ先の分岐の木下勝俊陣を。(2018/1/4撮影)
【右】真ん中の写真の木下陣側から、片桐陣の南側(南東?)付近から東方面。(2018/1/4撮影)
【左】上真ん中の写真の木下勝俊陣の横の道の先を。右側はどこまでが片桐陣?(2018/1/4撮影)
【真ん中】左の写真の右側を。この付近も陣跡なら…と思うも見えず…。(2018/1/4撮影)
【右】南側の陣跡がどこまで分からないので、少し進んだ先を。(2018/1/4撮影)
【左】片桐陣の東側から国道204号に架かる橋へ。(2018/1/4撮影)
【真ん中】片桐陣と津軽為信陣方面をつなぐ国道204号に架かる橋から片桐陣方面。(2018/1/4撮影)
【右】片桐陣と津軽為信陣方面をつなぐ国道204号に架かる橋から片桐陣の北東方面を見下ろして。国道沿いに標柱が立つ。(2018/1/4撮影)
片桐且元陣 2018.1.4記
今回は、佐賀県遺跡地図で位置を確認してから陣跡へ。 いつも案内板からの遠景や標柱のみだったので、出来るだけ付近まで行ってみる事に。 標柱の後ろが道っぽく見えたので、行ってみたけれど柵で中に入れず(^^;) 東側の道から陣跡付近へ行くと案内板があったので、正解だったんだ♪と嬉しくなるも、「私有地の為、陣跡内への立ち入りをご遠慮下さい。」の注意書きにガックリ。 石垣が見られるらしいので残念。仕方が無いので、陣跡の東〜南東側の道を歩いたのだけど、よく分からなかった(^^;)
片桐且元陣 2017.8.16記
前回は天気が悪かったから、晴れているとこんなにきれいに見えるんだと嬉しくなった。
片桐且元陣 2013.6.19記
標柱から歩いて行けそうな雰囲気だけど、雨が降るし、無理はせずに遠景だけ(^^)