さがけん うきたひでいえじん
■宇喜多秀家陣
駐車場=無し(標柱はスペースあり)
【撮影日】2019/1/4、2019/1/3、2018/1/4、2017/8/17、2013/6/19。
【左】遺構か分からないけれど南西付近の石積みを。(2018/1/4撮影)
2018/1/4現在
住所=唐津市鎮西町名護屋
案内板へは、名護屋城の南側の国道204号を西方面へ、道なりに国道204号を進み、南部信直陣跡や木村重隆陣跡の標柱を過ぎ、
堀陣の西側の入口を過ぎた先の堀陣の標柱が立つ分岐から東へ少し進んだ先にある。
標柱は、堀陣の西側の入口を過ぎた先の堀陣の標柱が立つ分岐を過ぎて、南下した左側の分岐に標柱が立つ。
この時の陣跡付近へは、標柱が立つ分岐から進んで、Y字を左へ。右カーブから陣跡に沿った?感じで進んだ。
(※ここで紹介するのは、アクセスの選択肢の1つです。)
■宇喜多秀家(1572〜1655)備前国岡山城主…織田信長による中国地方の攻略で、宇喜多氏は秀吉に従う。 父直家の後を継いだ秀家は、中国・四国・九州そして関東の平定に活躍。文禄・慶長の役でも、 両度とも渡海して戦っており、特に碧蹄館(ヘキチョングアン)の戦いは知られている。 秀吉の晩年には五大老に列せられていたが、関ケ原の戦いに敗れ、やがて八丈島に流罪となる。 彼の助命を嘆願した前田家から終生の援助を受けながら、流島の生活はおよそ50年にも及んだ。(案内板より)
【左】道の駅 桃山天下市の歴史探訪の道の案内板。4番の旗の所に案内板がある。(2019/1/3撮影)
【右】左の写真の4番の旗の所の案内板。(2017/8/17撮影)
(※ここで紹介するのは、アクセスの選択肢の1つで、自分用の覚書として詳細を。)
【左】堀陣の南西側の国道204号沿いの堀陣の標柱が立つ分岐。ここから進むと案内板へ。(2018/1/4撮影)
【右】(切り取り加工)左の写真の道を少し進むと案内板がある。(2018/1/4撮影)
【左】案内板側からの遠景。…見えてる?(2013/6/19撮影)
【右】(切り取り加工)案内板付近からの遠景。…でいいのかな?(2017/8/17撮影)
【左】稲葉重通と堀秀治の案内板より。(2017/8/17撮影)
【右】案内板側からの遠景。(2013/6/19撮影)
【左】堀陣の南西側の国道204号を南下、堀陣の標柱が立つ分岐を過ぎた次の分岐に標柱が立つ。駐車スペースもある。写真左側の道を進んで宇喜多陣方面へ。(2019/1/4撮影)
【右】宇喜多秀家の標柱「宇喜多秀家陣跡・備前 岡山」。(2017/8/17撮影)