【雉岡城 その2】

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馬出し&塙 保己一(はなわ ほきいち)記念館
塙 保己一(1746〜1821)は、郷土が生んだ我が国有数の国学者である。 延享3年(1746)5月に、武蔵国児玉郡保木野村に生まれ、幼時に失明した。 15歳の時に志をたて江戸に出て、雨富検校(あめとみけんぎょう)須賀一の門に入った。 音曲・針治療等の修行に励むとともに、 自ら志した学問の道に進み、萩原宗固(はぎわらそうこ)や賀茂真淵等に師事した。 その後、学者として名声が高まり、水戸藩の依頼により 「大日本史」の校訂を行った。 寛政5年(1793)には幕府に進言して、和学講談所を設立し、 ここを国学研究の拠点となし、屋代弘賢・中山信名(のぶな)・奈佐勝皐(なさかつたか)等の 有数な学者を輩出した。 保己一の業績で最も知られているのは「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」の編纂で、 古代以来我が国に残されてきた諸家の記録や貴重な書物の散逸を憂えて、 これらを集めて分類・校訂して版木に起こし印刷刊行した。 「群書類従」は我が国の歴史や文学を研究する上で、 現在でも大変貴重な資料集となっている。 保己一は文政4年(1821)に総検校となり、同年9月12日に76歳で没した。 (本庄市教育委員会の案内板より)  (左)馬出しに立つ塙 保己一記念館。 (右)記念館入口。
二の郭
(2枚)金毘羅神社の土塁
から二の郭(中学校)を。
いまいち、分かりにくい
けど、恐らくこの辺り…。
二の郭・東側の土塁&金毘羅神社
(左)二の郭・東側の土塁に立つ金毘羅神社。 (真ん中)金毘羅神社へ。 (右)土塁上ときれいな金毘羅神社。
二の郭・東側の土塁(金毘羅神社)から東側へ
(左)二の郭・東側の土塁から東側の水堀へ。 (真ん中)見上げて。左は金毘羅神社。 (右)水堀を挟んで。
各水堀と分岐点
(左)写真左側が金毘羅神社のある土塁、水堀を挟んで右側が南の郭。 (真ん中)左の写真と同様だけど、
奥に見えるのが東の郭。 (右)写真左側の井戸手前に行くと、東の郭と南の郭の間の水堀、 井戸の奥の
斜め左へ向かうと、夜泣き石方面。中央の土塁の切れ目が、 金毘羅神社横の下り口になる。
水道の井戸
児玉町は長い間、水不足の為に苦労を繰り返してきた。この井戸は
大正期に児玉町の上水道用にと造られた源泉の井戸である。
きれいな湧水を利用した上水道であったといわれているが、その後、
水量不足や費用の関係で廃止され、上水道施設は連雀町小中山に
移設された。(児玉町教育委員会の案内板より)
本郭・東側の土塁
(左)写真左側が本郭で、北方面。 (真ん中&右)重なる部分があるけどパノラマっぽく。北側から土塁の端。
本郭&東の郭(三の郭)との水堀
(左&真ん中)本郭東側の土塁から本郭(中学校の北側)を見下ろして。 (右)左側が東の郭、右側が本郭。
東の郭(三の郭)
(左)児玉高校グラウンドも? (真ん中)東南方面。右側に本郭との水堀。 (右)真ん中の写真を本郭・南東側から。
東の郭(三の郭)と南の郭(三の郭)との水堀


(パノラマっぽく加工) 左側が東の郭、右側が南の郭。 土塁の曲線と水堀が凄く素敵(^^)

■雉岡城
駐車できるかどうか不安だったけど、 朝8時40分に到着だったから、無事、駐車出来た(^^) ここの城跡は、緩やかなものから高くてしっかりした土塁が見られるし、 深い空堀や水堀が凄く素敵だった〜(^w^) 夜泣き石の言い伝えは、かなり怖かったけど(^^;) 見学時間は、のんびり歩いて約30分。

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