しがけん ながはまじょう
■豊(ほう)公園=入園自由
■長浜城=見学自由
■長浜市長浜城歴史博物館
入館料=400円
開館時間=9時〜17時(入館は16時半まで)
休館日=年末年始、臨時休館もあり。
駐車場=無料駐車場
2006/5/1現在
住所=長浜市公園町10番10号
この時は、彦根市から長浜市へ県道2号のさざなみ街道を北上し、湖周平方信号を過ぎて、
港町信号を左折、そのまま進んで行くと、右に駐車場がある。
豊公園の案内板が出るので、比較的分かりやすい。
色付きの案内板の写真をクリック → 拡大。
長浜はもと今浜といい、「バサラ大名」として有名な京極道誉(きょうごくどうよ…佐々木高氏)
が室町時代の初め頃に出城を築き、それが長浜城の元と伝えられる。以後、家臣の今浜六郎左衛門が創築し、上坂(こうさか)氏が守将として在城したといわれている。
姉川合戦の後、その功によって湖北三郡を与えられた羽柴秀吉は、天正2年(1574)頃、小谷(湖北町)から当地に城下町を移し、地名を長浜と改め、ここに城を築いて数年居城とした。
天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでは、ここを根拠地として大勝し、織田信長後継者としての立場を確立した。 秀吉の家臣である山内一豊も天正13年(1585)から5年間在城した事がある。 江戸時代になって、慶長11年(1606)には徳川家康の家臣である内藤信成が入城し、その子信正が摂津高槻に移るに至って廃城(元和元年・1615)となった。 建物及び石垣の大半は、彦根城の築城に際して移され、その天秤櫓(国・重文)や三重の隅櫓は当城の遺構といわれている。 また、当市内の大通寺台所門、知善院表門も当城の遺構として名高い。この豊公園は「本丸」という小字名でよばれ、城域の中心部に当たる所から貴重な史跡として昭和37年に市の指定文化財として指定されている。城跡の遺構は、 これまでの発掘調査によって、石垣や掘立柱建物跡、礎石建物跡さらには舟着場らしき石組み遺構等が一部発見されている。 しかし、調査は部分的であり、全体の縄張りや細部の構造については、未だ解明されていない。(長浜市教育委員会の案内板より)
長浜城はこんな風に、石柱が立っているので、散策するのが楽しい。城下町にもいっぱいある(^^)
■本丸橋…明治42年(1909)豊公園として整備され、その時に木製の橋が架けられ、本丸橋と親しまれた。 その後、昭和12年(1937)に石橋に架け替えられた。昭和52年(1977)豊公園を総合公園として整備する為、 周辺一体を土地区画整理事業によって堀の埋立が行われた為、当時の場所の南側へ、橋の高欄を復元した。(長浜市の案内より)
豊公園になってからかぁ…。本丸橋っていうから、てっきり昔のものかと(笑)
石碑が建つ位置は、長浜城の天守閣があったといわれる所である。 その天守台の大きさは、江戸時代の絵図によれば、東西12間×南北10間。(案内板より)
【真ん中】天守跡に建つ秀吉公。こんな所に…。
【右】石垣の名残かな(^^)
琵琶湖の中にある太閤井戸。すぐ近くに琵琶湖かぁ…。
■石垣出土地…従来、この附近の水面下には、長浜城石垣の用石と伝えられる巨石が散在していた。 昭和44年7月、この地に湖岸埋め立て工事が進められる事になり、同年11月下旬から約1ヶ月、 水底の発掘調査をしたところ、石垣の根石と認められる30数個の巨石が、 延長約30mに亘り、整然と列をなしている事がわかった。(長浜市教育委員会の案内より)