しがけん おだにじょう
■小谷城=見学自由
駐車場=無料駐車場(麓と中腹にある)
2006/5/1現在
住所=東浅井郡湖北町伊部
この時は、北陸自動車道 長浜I.Cを下りて、
県道37号から山階町東交差点を県道510号へ右折。
ひたすら進んで、北陸自動車道の下をくぐって、
ずっと進んでいき、国道365号へ郡上南交差点を右折。
その先に、左側に小さな看板があって細道を左折。
そのまま走ると麓の駐車場で、そこから中腹まで車で行く事が出来る。
小谷城は戦国乱世の大永4年(1524)浅井亮政が京極氏より自立して築城してから、久政を経て、3代長政が織田信長に抗して敗れる天正元年(1573)までの50年間、
浅い滋賀根城とした所であり、六角氏との戦や姉川の戦にもこの城が、多くの将士が勇躍して出陣したのである。
また、この城は信長の妹お市の方の住した所であり、その子淀君や徳川秀忠夫人らの誕生の地でもあって、ひとしお旅情をそそるものがあろう。
小谷城は北国街道 中山道 北国脇往還の交通の要衝にあり、湖上交通を利用すればはるか湖南湖西京都へ通ざる地の利を占める上に江北三郡を一望におさめ得る要所である。
城は典型的な山城であり、下より尾根上に出丸、金吾丸、番所、御茶屋、御馬屋、馬洗池、桜馬場、黒金御門、
大広間、本丸、中の丸、刀洗池、京極丸、小丸と続き海抜395mの山王丸を頂とする。
山腹には赤尾屋敷、お局屋敷、大野木屋敷を始め、削平地、竪堀等遺構は、全山を埋めている。
更に主峰大獄、六坊を始め要所には遺構が散在し、清水谷には根小屋跡があって、武将達の屋敷跡が歴然としており、これより続く城跡西方の平坦地は城下町であった。
落城後、木下藤吉郎秀吉によって、城楼、城下町、寺院等が今浜(現長浜)に移され、今は空しく松籟のみが、昔の悲劇を物語っている。
戦国時代、「近江を制するものは天下を制す」といわれたほど、近江は天下を左右する重要な位置にあり、数多くの戦乱の場となった。
この為、多くの城郭が築城され「近江の城郭を語らずして中世は語れず」と言われるほど、近江には中世の城館が数多く見られる。
その中でも、小谷城は、亮政・久政・長政の三代にわたって、小谷山全域に築かれた我国でも屈指の規模を持つ中世城郭で、日本五大山城の1つ。
長政とお市の方(織田信長の妹)との間に生まれた3人の姫は、成人して、長女の茶々は豊臣秀吉の側室ー淀君ーとして、次女の初子は大津城主京極高次に嫁ぎ、
三女の達子(小督)は徳川二代将軍秀忠の夫人となって、家光(三代将軍)・忠長・千姫・東福門院(後水尾天皇中宮)等を生んだ。(湖北町教育委員会の案内板より)
【左&右】案内板の写真をクリック→拡大。
【左】駐車場にある城址碑は存在感タップリ!
【真ん中】今回は中腹まで一気に車で行った(^^)
【右】なかなか素敵♪
【左】ぐんぐん車で山を上がって到着すると、道の脇に車が置かれている。ん〜、駐車場と言えるのかな(^^;)ちなみに、中央の車は愛車♪
【真ん中】そこから、看板方面へ歩いて、看板の左側が金吾丸で、右側が小谷城のメインになる。
大永5年(1525)六角定頼の来攻に際し、越前より朝倉教景が来援し陣所とした。(案内板より)
【左】急な道を上がって金吾丸へ。
【真ん中】長細い金吾丸。
【右】金吾丸からの景色。
遠方からは見えず間道もここに集まる要所に位置する登城者の検問所である。 北の下方には数段の削平地があり相当な規模である。(案内板より)
【左】看板からすぐ近くにある番所跡。ちゃんと説明板もあって親切(^^)
それにしても、城マニアの人と出発が同じだとなんだか気恥ずかしい(^^;)
【右】番所跡から上へ向かう道。
番所跡側からなだらかな道を上がっていくんだけど、春なのに、暑い、暑い(^^;) すれ違う人達の顔も真っ赤っか。
馬洗池は湧水ではないが、往時は年中水が絶えなかったという。 西隣に土塁で囲った馬屋があり、北の柳の馬場に通じており、馬関係の一画である。(案内板より)
【左】写真でも分かるように、土塁で囲まれていて、結構広い曲輪。
【右】馬洗池。
重臣赤尾氏の二段になった屋敷跡がある。 天正元年8月28日、戦破れた長政はこの屋敷に入って自刃し、29才の生涯を閉じた。 小谷城一の聖域である。(案内板より)
案内板から約100m先にある。サクサク枯葉を歩いて奥へ。 ここで長政さんが自刃したのかと感慨深い場所だ。土塁も高く、ひっそりとしている。