しまねけん ふげんじょう
■不言城(別名=福光城、物不言城)=見学自由
駐車場=無し
(写真)三の丸側の登山口。右の山が不言城。
2014/8/30現在
住所=大田市温泉津町福光
この時は、浜田市側から国道9号を北上し、仁摩・温泉津道路との信号を過ぎ、
左側に県道203号が交わる所を過ぎて走っていくと、
ガソリンスタンドの手前に「不言城」の案内があるので、
それに従って右折、古市橋を渡ってすぐ左側に説明板、三の丸側の登山口がある。
不言城は、当初、福光氏の居城であったが、永禄2年(1559)石見地方に侵攻した毛利元就は、 川本温泉城の小笠原長雄攻めに功績のあった吉川経安(石見吉川9代目)に福光氏の所領を与えた。 これを機に、吉川経安は嘉暦3年(1328)より200年にわたって拠点としていた 大田市温泉津町井田津淵の殿村城(高越城)から不言城に居を移し、改修して居城とした。 本丸・二の丸・三の丸跡が今も残っており、本格的な山城であったことがうかがえる。 古今の名将の1人して名をはせた不言城主吉川経家は、9代目経安の子である。 経家は、羽柴秀吉の因幡攻めに対抗できる毛利方の武将として鳥取城に入城、 秀吉の有名な兵糧攻めに耐えて7ヶ月籠城の後、城兵や城に避難した城下の民衆の助命を条件に自刃した。 慶長6年(1601)経家の子経実は、吉川本家の家老として迎えられて岩国に移住し、不言城はその歴史を閉じた。 (不言城会の不言城会創立10周年記念事業の案内板より・下の案内図、遠景写真も//下真ん中=二の丸に設置された説明板より)
案内図をクリック→拡大。
楞厳寺側登山口にも説明板が立つ。この時は三の丸側からの見学だったので、説明板のみ撮影。
戦国時代、不言城は福屋氏、福光氏と主を変え、
永禄2年(1559)には吉川経安が井田殿村城から移って居城とする。
天正9年(1581)、羽柴秀吉の鳥取城攻めに対抗し、
毛利方は時の不言城城主吉川経家を鳥取城に派遣、
これを守備させるが秀吉得意の兵糧攻めにあい開城。
10月25日、経家は城兵の身代わりとして自刃した。
経家はその遺書の中で
『日本二つの御弓矢(織田氏と毛利氏)の衝突の中で切腹するのは末代までの名誉だ』
と記されている。(案内板より)
【左&真ん中】国道9号の入口(古市橋・三の丸側登山口)に立つ説明板。駐車スペースもある♪
【右】説明板に載っている吉川経家公銅像で、鳥取城見学で写したもの。折角なので紹介(^^)
【左】登山口の説明板。
【真ん中】登山道入り口。右側の山が不言城。
【右】民家側の斜面の標柱。