トロとまったり・tripのページ(市川城 その1)

千葉県 市川城

ちばけん いちかわじょう

■市川城
■弘法寺、伏姫桜
駐車場=見学者用は無しで、墓参用はあり。
(写真)弘法寺の鐘楼堂が立つ土塁。

2017/4/8現在

住所=市川市真間4-9-1
この時は、松戸街道(県道1号)を北上、京成国府台駅の陸橋をくぐって北上し、進んだ先の歩道橋の右下にある真間山の入口案内に従って右折。 狭い路地を進んで2本目の路地を左折、そのまま道なりに進むと、右側に弘法寺の入り口がある。 でも、駐車場は墓参用しかないので、上記の歩道橋手前のコインパーキングを利用した。

弘法寺(ぐほうじ)

弘法寺は、略縁起によると、奈良時代、行基菩薩が真間の手児奈の霊を供養するために建立した求法寺がはじまりであり、 その後平安時代、弘法大師(空海)が七堂を構えて「真間山弘法寺」とし、さらにその後天台宗に転じたとされる。 真間の地は、かつてはすぐ北に六所神社があり、国府が設置されていた古代以来の下総国の中心地であった。 そのためここに古くから寺院があった可能性は高く、本来は国府と密接にかかわる寺院であったとの推測もある。 鎌倉時代、この地に及んだ日蓮の布教を受けて、建治元年(1275)、時の住持了性(りょうしょう)が日蓮の弟子で中山法華経寺の開祖日常と問答の末やぶれ、 日蓮宗に転じ、日常の子で六老僧の一人日頂を初代の貫首としたと伝える。 鎌倉末期の元亨三年(1323)には千葉胤貞(ちばたねさだ)により寺領の寄進を受け、延文三年(1358)の日樹置文によれば葛飾郡一帯や千田庄(多古町)に多くの寺領や信徒を擁していたことが知られる。 また室町・戦国時代には山下に真間宿または市川両宿といわれる門前町が発展し、賑わいをみせていた。 天正十九年(1591)、徳川家康より朱印地30石を与えられ、元禄八年(1695)には水戸光圀も来訪したと言われる。 江戸時代は紅葉の名所として知られ、諸所に真間山弘法寺の紅葉狩りのことが記されているが、明治二十一年(1888)の火災のため諸堂は焼失してしまった。 その後明治二十三年(1890)に再建され、現在に至っている。 境内には、日蓮の真刻と伝える大黒天をまつる太刀大黒尊天堂、水戸光圀が賞賛して名付けたといわれる遍覧亭、袴腰の鐘楼、仁王門、伏姫桜とよばれる枝垂桜があり、小林一茶、水原秋桜子、富安風生等の句碑がある。 (平成十八年三月 市川市教育委員会の案内板より)

道中

【左&真ん中】松戸街道(県道1号)の京成国府台駅の陸橋をくぐって北上、歩道橋の右下に真間山の入口案内が立つ。 でも、その先は案内が無く、到着しても墓参用の駐車場のみで、見学者用の駐車場は無い。
※この時は入園式と桜の開花が重なった為か、それとも常時いるのか分からないけど、警備員がいて墓参用駐車場にはとめさせて貰えなかった。
【右】真ん中の写真の所から路地を進むと超狭かった!対向車が来るとかなり大変(@@;) ちなみに、ここは切通し道で、堀切跡かもしれないのだそう。

石段

【左】南側にある仁王門へ続く石段。
【右】仁王門側から見下ろして。少し小高い所にある。

弘法寺のHPによると下から27段目にある石が涙石だそう。ここにある石だけが、涙を流しているように濡れ続けているんだとか! この日は雨が降った後なので最初から湿っていたけど、明らかに1つだけ緑色で石質も違っている石があった。

仁王門

【左】石段側からで、祖師堂が奥に見える。
【真ん中】境内側からで、写真左側の土塁に鐘楼堂が立つ。
【右】真ん中の写真の右側の土塁。

【左】扁額を見上げて。
【真ん中&右】ネット越しからの仁王像。

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