やまぐちけん おおうちしやかた
■大内氏館
■龍福寺
駐車場=無料駐車場
2014/8/31現在
住所=山口市大殿大路
この時は、国道9号から上堅小路信号で県道62号へ。
1本目の信号を過ぎた左側が築山神社と八坂神社。
その後、県道62号を南下して、龍福禅寺(大内氏館跡)の案内板に従って左折。
直進して右側に案内板がある駐車場があって、その左側に行くと墓地横にも駐車場がある。
ここは、大内氏24代弘世が正平15年(1360)頃、それまでに館があった大内御堀から山口に移り、 館を定めた所である。大内氏は弘世以後歴代がここで政務をとり、 山口は西日本の政治経済の中心となった。また、大内氏は海外との交易によって富の蓄積と異国文化の移入、 京の戦乱を避けて公卿・僧侶などの文化人が、この館を訪れたことによって、 当時の山口は京都を凌ぐほどの富と文化を誇ったといわれている。 天文20年(1551)大内氏31代義隆は重臣陶晴賢の叛乱により滅亡した。 その後、陶氏を滅ぼした毛利氏は、弘治3年(1557)大内義隆の菩提を弔うため、 この館跡に龍福寺を建立した。館は、百間四方の堀と土塁に囲まれた中に造られていたといわれている。 現在は殆どその面影を見ることが出来ませんが、山門の東側竹藪の中に土塁の一部を見ることができる。 (管理団体 山口市の案内板より・航空写真も)
【左】凄く素敵な参道♪【右】参道に再現した井戸がある。
天文19年サビエルは大内義隆卿に謁し布教の許可を得て、 大殿大路の井戸の傍で初めてキリスト教の布教をしたと言われている。 この井戸はそれを再現したものである。(案内板より)
【左】龍福寺の山門と参道。
【真ん中】大内氏遺跡附凌雲寺 館跡の標柱。
【右】大内氏遺跡 館跡の碑。
龍福寺は、もとは白石(山口市白石)の地にあったが、天文20年(1551)に兵火がかかり、 そのままになっていたものを、弘治3年(1557)毛利隆元が大内義隆の菩提を弔う為にこの地に再興した。 明治14年(1881)、龍福寺は火災に遭い、殆どの建物が焼失した。 その為、吉敷郡大内村(現在の山口市大内御堀)の大内氏の氏寺であった天台宗の興隆寺から釈迦堂を移築し、 曹洞宗の龍福寺本堂へ改造した。この本堂は、文明11年(1479)に建立されたと言われており、 内部の大虹梁(だいこうりょう)、板蟇股、組物などは室町時代の建築の特徴をよく表している。 移築後、約100年の月日が経ち、大規模な修繕が必要となったことから、平成17年から平成23年にかけて保存修理工事が行われ、 建立当初の室町時代の姿へ戻された。本堂は、桁行五間、梁間五間の入母屋造で、 屋根は桧皮葺、正面には蔀戸がある。なかでも内・外陣を隔てる板扉と格子戸の組み合わせによるしつらえは、 大変珍しい物である。(山口市教育委員会の案内板より)
天文20年(1551)重臣陶晴賢の謀叛により大内氏31代義隆卿は大内御殿から長門の大寧寺(たいねいじ)に逃れた。 この時、大寧寺住職異雪慶殊(いせつけいじゅ)和尚の弟子となり金剛経の経文を引用した 「討つ人も 討たるる人も 諸ともに 如露亦如電応作如是観(にょろやくにょでんおうさにょぜんかん)」の時世を詠んで自刃された。 その意味は、敵も味方も人の命は露のように、また稲妻のようにはかないという佛教の無常観をうたったものである。 時に45歳の生涯だった。(案内板より)
【左&真ん中】龍福寺資料館の前に大内義興公「馬上展望」像が置かれていた。
【右】「しあわせのかね」。案内板が読めなかった…。
■豊後岩の由来…大内氏は歴代政庁をこの地に置き、西日本に覇をはっていたが、 後には防・長・芸・備・石・豊・築の7か国の守護を兼ね、その富と権力は天下に並ぶべきものがなかった。 当時世の中は兵乱に明け暮れていたが、山口の町は平和を保っていたので、 戦乱の都を避けて、この山口に来る公卿・文人が多くあり、いわゆる西の都の繁栄があった。 大内氏はこれら来訪の客をもてなすため、邸前に広大壮麗な築庭をした。 そこには流水があり、また当時珍しい蘇鉄が植えられたりしたが、 使用した岩は全部豊後の国から舟で持って来たものであった。 しかしこれらの岩は、豊後の国を恋しがって、雨の夜は「豊後に帰りたい」といって泣いていたという。 そのような立派な庭も大内氏の滅亡後は荒廃して、僅か豊後岩だけがここに残って、 往時の栄えの跡を偲ばせている。(案内板より)
(切り取り加工)亀山公園(長山城)からの遠景。左端の赤い鳥居が築山館。 一直線の右端の茶色の屋根が、大内氏館の龍福寺。