【名古屋城 その2】

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正門(焼失・再建) 表二之門 石垣の刻紋
明治43年に旧江戸城内の蓮池御門が移築されたが、 第二次世界大戦により焼失した為、昭和34年天守閣と共に 再建。(案内板より) 古くは南二之門と呼ばれ、本丸追手枡型の外門に あたる物で、門柱・冠木とも鉄板張りとし、用材は木割が太く堅固に 造られている。袖塀は土塀として数少ない遺構である。 (案内板より) 見つけると嬉しい(^^)他にもある。
西南隅櫓
古くは未申櫓とも言われ、屋根二層内部三階の櫓である。 外部に面した西・南両面には軍事用の「落狭間」(石落とし) を張り出して、屋根は千鳥破風にし擬装している。 この櫓は、濃尾大地震で石垣と共に崩壊したが、大正12年 (1923) 宮内省により修理復旧され、鬼瓦等に菊家紋が見られる。
←天守閣と一緒♪
清正の石曳き
緑と石垣が凄くいい雰囲気(^^) 慶長15年(1610)加藤清正が徳川家康に願い出て、 大小の天守閣の石垣工事を施工した。 清正は巨石を修羅に乗せて運ぶ時、石の上に乗り、気勢を上げたと伝えられ、 世に「清正の石曳き」といわれている。(案内板より)
←大きな石に乗っかって、写すのが大変のなんのって(^^;)
東南隅櫓
辰巳櫓ともいわれ、その規模、構造は西南隅櫓と同じだが 「落狭間」の破風の形を異にしている。この櫓は創建当時の 姿を伝える物で、鬼瓦等に葵の紋が見られる。 (案内板より)
名勝二之丸庭園
現在の庭園は、昔の庭園を調査しその基本の性質を踏まえて 拡充復元したもの。 面積は、5,137u(1,567坪)で枯山水廻遊式庭園で庭園内の建物を 挟み、南庭と北庭とに別れ、北庭が比較的、創設当時の姿を よく残している。北庭は、五つの築山で囲まれ、 三つの中島と、数多くの出島のある池を中心として作られ、 石橋、山道、岸づたい等変化のある廻道路がめぐらされている。 池には、深い渓谷の趣きを表現し、池底は庄内玉石敷で、その下は、 南蛮たたきになっている。石組は、佐久島石、篠島石、幡豆石、桃取石 等数多くの名石が使用され、樹木は松を始めとして、観賞用、 薬用、非常用の物等が植えられている。(案内板より)    紅葉がほんのり色付いていてきれいだった♪
那古野城跡 二之丸東庭園
大永(1521〜28)の初め、今川氏親が名古屋台地西北端に築いたもので、 一名「柳の丸」といった。氏親は、一族の氏豊を城主として 守らせていたが、天文元年(1532)織田信秀のため城を奪われた。 その後信秀が居城し、天文3年信長はここで生まれたといわれる。 同年、信秀は古渡城に、また、弘治元年(1555)信長も清須に移り、 一族の信光が居城したが、やがて廃城となった。 慶長15年(1610)名古屋城築城の際、二の丸の一部となった。 (名古屋市教育委員会の案内板より) 明治の初めに兵営建築の為、二之丸庭園の多くが壊された。 名古屋市蓬左文庫所蔵の「御城御庭絵図」に基づいた発掘調査で 現れた北池・南池・茶席「霜傑」建物跡・暗渠の四遺構を中心に 整備し、昭和53年4月に二之丸東庭園として開園。 面積は、約14,000u。(案内板より)
北暗渠(きたあんきょ)
「御城御庭絵図」にある御庭の外側の暗渠式排水路の遺構が、 発掘調査した時のままの状態で整備。絵図によれば、この付近には花壇が あった。これは、「金城温古禄」にある、雨水を引き入れる「水道石樋」 の遺構と認められる。現在もここに溜まった雨水は、石樋を通じて堀へ 注いでいる。石材は、蓋石が花崗岩、側石が硬質砂岩である。 (案内板より)
南蛮たたき鉄砲狭間からの堀 南蛮たたき鉄砲狭間
二之丸御殿北御庭の北端の石垣の上に東西に長く伸びた 練塀の遺構。この練塀は「南蛮たたき」で固められた 非常に堅固なもので、円形の鉄砲狭間が見られる。 名古屋城の遺跡としては、非常に珍しいもの。 (案内板より)
埋門跡(うずみもんあと)
埋門とは、城郭の石垣又は土塀の下をくぐる門を言う。 埋門の跡は二之丸庭園の西北の位置にあり、城が危急の場合、城主は ここから脱出する事が決められていた。 この門をくぐれば垂直の石段があり、これを降り濠を渡って対岸の 御深井丸の庭から土居下を通り大曽根、勝川、定光寺を経て、 木曽路に落ち行く事が極秘の脱出路とされていた。 (案内板より)

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