トロとまったり・tripのページ(宇和島城 その1)

愛媛県 宇和島城

えひめけん うわじまじょう

■宇和島城(別名=鶴島城)=見学自由
開門時間=6時
閉門時間=18時30分(4/1〜9/30)
      =17時(10/1〜3/31)
■天守=200円(開館時間=9時〜16時)
休館日=年中無休(臨時休館あり)
駐車場=有料駐車場(桑折氏武家長屋門の側)

2007/8/15現在

住所=宇和島市丸之内
松山方面から宇和島方面へ国道56号を走り、 バイパスでない国道56号へ進み、国道320号(左に行くと宇和島駅) との交差点を過ぎて、少しして城山公園の看板が出て、 右側の消防署を過ぎた細い道を右折。右側に有料駐車場があって、 正面が2ヶ所ある登城口の1つ(藩老桑折氏武家長屋門側)。

宇和島城

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■宇和島城の沿革…戦国時代高串道免城主の家藤監物(いえふじ けんもつ)が、天文15年(1546)板島丸串城に入ったというのが、板島丸串城の記録に現れた始めである。 その後、天正3年(1575)西園寺宣久の居城となったが、同13年(1585)には、伊予の国が小早川隆景の所領となり、持田右京が城代となった。 その後、同15年(1587)宇和郡は戸田勝隆の所領となり、戸田与左衛門が城代となった。 文禄4年(1595)藤堂高虎が宇和郡7万石に封ぜられ、その本城として慶長元年(1596)築城工事を起こし、 城堀を掘り、石垣を築いて、天守閣以下大小数十の矢倉を構え、同6年(1601)頃までかかって、厳然たる城郭を築き上げた。 慶長13年(1608)高虎が今治に転封となり富田信高が入城したが、同18年(1613)に改易となったので、約1年間幕府の直轄地となり、高虎が預かり、藤堂良勝を城代とした。 慶長19年(1614)12月、仙台藩主伊達政宗の長子秀宗が宇和郡10万石に封ぜられ、翌元和元年(1615)3月に入城の後、宇和島城と改めた。 それ以後、代々伊達氏の居城となり、二代宗利の時、寛文4年(1664)天守閣以下城郭全部の大修理を行い、同11年(1671)に至り完成した。(宇和島市教育委員会の案内板より)

藩老桑折(こおり)氏武家長屋門

【左】右側のフェンスが有料駐車場で、ここを利用した。台数があって安心(^^)
【右】長屋門をくぐると石垣。

この門は、現在の中央町1丁目にあった宇和島藩の家老 桑折氏の長屋門を、昭和27年にここに移したものである。 その際、向かって左方の長屋の大部分を切り取ったので、現在ではかなりその原形を失っているが、なお往時の壮大な規模と構造の特徴を知ることができる。 門の向かって右の部屋は、もとの厩で、左の長屋には、門番と家付きの使用人をはじめ、中間・小者が居住していたものである。 建築年代は確かなことは分からないが、江戸中期と推定される。(宇和島市教育委員会の案内板より)

登城口

【左】長屋門をくぐって石段を上がって行くと、緩やかな坂と石段との分岐がある。まず、緩やかな坂から。
【真ん中】井戸丸への石段。
【右】緩やかな坂。

長門丸の石垣を見つつ…

今回は親も同行していたので、緩やかな坂を選んだけど、もっと先に井戸丸へ下る道もあったので、正解だった(^^)
【左】長門丸の石垣を見つつ進む。
【右】西角矢倉跡の石垣。この辺りから素敵な石垣が見られるようになって、 すぐに長門丸に到着。

長門丸

【左】長門丸の西角矢倉の石垣の先で、すぐに長門丸に到着。 入って右側に長矢倉跡がある。
【真ん中】長門丸への入口。長門丸側から。
【右】長門丸。公園化していて、日陰のベンチで親が一休みしている間に、くまなく見て回る私とだんにゃ(笑)

長門丸・長矢倉跡
長門丸・西角矢倉跡
長門丸・貯水池

【右】最初は何かと思った貯水池(^^;)

長門丸・北角矢倉跡

【右】下からは無理でも、上からならこんな風に見える石垣♪

長門丸から藤兵衛丸への石段

【右】石段から長門丸方面を見下ろして。

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