ふくおかけん こくらじょう
■小倉城=見学自由
■勝山公園
小倉城・室内観覧料=350円
開館時間=(4〜10月)9時〜18時(入館=15時半)
(11〜3月)9時〜17時(入館=16時半)
駐車場=勝山公園有料駐車場
営業時間=8時45分〜21時
駐車料金=最初の1時間200円、以降30分毎に150円
※このページは、2004/1/2&2008/1/2の写真を使用。
2008/1/2現在
住所=北九州市小倉北区城内2番1号
小倉城は、慶長7年(1602)に、関ヶ原合戦の功労で入国した細川忠興(ただおき)により、本格的に築城された。
忠興は城下町繁栄策として、諸国の商人や職人を集めて、
商工業保護政策を実施し、外国貿易も盛んにし、祇園祭りも誕生させた。
細川氏熊本転封の後には、嘉永9年(1632)に、播磨国明石から細川家とは姻戚関係にある譜代大名の小笠原忠真(ただざね)が入国。
小倉・小笠原藩は、徳川家光から九州諸大名監視という特命を受けていた。
小笠原忠苗(ただみつ)の時期には、城内下屋敷に泉水を持つ回遊式庭園も造られている。
しかし、1873年、城内から発した火災により全焼。2年後に再建されたが、天守閣は再建されなかった。
幕末期になると、小倉は長州藩を攻める第一線基地となり、
その中で小倉と熊本藩は勇敢に戦ったが、他の九州諸藩の兵には積極的な戦意がなく、
ついに1866年、自ら小倉城に火を放って戦線を後退せざるをえなかった。
明治10年の西南戦争の際には、小倉城内に駐屯していた歩兵第14連隊が、乃木将軍に率いられて出征した。
その後は歩兵第12旅団や第12師団の司令部が城内に置かれた。
太平洋戦争後は米国に接収されたが、1957年に解除、1959年に市民の熱望によって天守閣が再建された。
1月2日だったから勝山公園有料駐車場は満車で、 松の丸跡が臨時駐車場になっていた(^^;) (右=2004/1/2撮影)
松の丸の石垣。
【左】南西隅の石垣。
【真ん中】南側の石垣。上には白洲灯台。
【右】南から南東方面へ続く石垣。
【左】赤黒さが生々しい。
【右】上で紹介した西の口門跡手前の堀を逆から。
本丸(左)と二の丸(左)の堀。
■鉄門跡…藩主及び家老など極限られた者は槻門を通り、鉄門はそれ以外の武士などの登城口であった。 一部復元しているが、中央部目地の左側が幕末時の石垣と階段であり、落城時の様相を示すように石垣が加熱を受けて赤変化している。 当時の階段の幅は約2.1mであったが、夜間の通行を考慮して幅を2倍に広げた。 ここからは、鉄製鎧片、中国製磁器、三階菱文様丸瓦等が出土した。(北九州市教育委員会の案内板より)
【左】天守入口の文字で、瓦には小笠原家家紋の三階菱。(2004/1/2撮影)
細川忠興(ただおき)により、慶長7年(1602)に、本格的に築城された。
当時は「唐造り」と呼ばれ、全国唯一の珍しい物だった。
現在の城は、昭和34年に在りし日の名城を再建した物。
「唐造りの天守」4階と5階の間に屋根のひさしが無く、5階が4階よりも大きくなっているのが特徴。
城の石垣は切石を使わない野面積みで、素朴ながらも豪快な風情にあふれている。
光ながら説明してくれるので、分かりやすい(^^) それにしても、細々と作られていて凄い!(2004/1/2撮影)
【左】南。右が松の丸。
【真ん中】北西。北の丸の八坂神社。遠く北九州都市高速道路。
【右】北。リバーウォーク北九州。(2004/1/2撮影)