【苗木城 その1】

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岐阜県 苗木城  ぎふけん  なえぎじょう
■苗木城(別名=赤壁城)=見学自由
駐車場=無料駐車場       (2007.10.6現在)
住所=中津川市苗木
この時は、中央自動車道 中津川I.Cを下りて、 国道19号へ。少しして左の国道257号へ。 青木信号で国道257号が左になって、 そのまま進んで、中津川道路(有料道路)を通り、 城山大橋を渡り終えて右折(確か、看板があった気が…)。 道なりに進んで、苗木遠山資料館を過ぎてすぐ右に行き、 砂利道を通って、左側の駐車場(駐車スペース?)にとめた。 ここからすぐ近くに苗木城の入口があった。

苗木城 (小さい案内板の写真をクリック→拡大)
苗木城は、天文年間に遠山直廉が築城したと伝えられている。 織田信長の妹を正室とし、東美濃安定のため、 直廉の娘を信長の養女とし、武田勝頼に嫁がせ、 勝頼の嫡男信勝を生んでいる。 元亀3年(1572)、直廉が病死。信長の命により、飯羽間城の遠山友勝が城主となり、 友勝死後は、その子友忠が阿寺城から移った。 天正11年(1583)、本能寺の変後、金山城の森長可に攻められ落城。 友忠は徳川家康を頼り落ち延びた。 森氏の支城となったが、川中島へ転封後は、川尻直次が領したが、 関が原合戦時、西軍に属した為、川尻直次は改易となり、 家康の命を受け遠山友忠の子の友政が、苗木城を奪還。 以後は、代々遠山氏の領することとなった。
赤壁城の伝説
苗木城は木曽川の絶壁に建てられた立派な城であった。 白壁が夕日に輝いて、なかなか品のある城であった。 所がある日、耳をつんざくような雷が鳴って、 激しい雨が降った。昼であったが夜のように暗くなり、 木曽川は怒涛さかまき白い牙をむくように、荒れ狂った。 丸一日吹き荒れた嵐も過ぎて、城下の人たちが驚いた。 真白であった城の壁が何かで引っかいたような、爪の跡で 赤くはげてしまっていた。 大勢の左官が召し集められ、修理されたが白い壁になると、 嵐が来てまた赤くなってしまう。何度塗り替えてもだめだった。 殿様も城下の人々も、白壁に塗ると木曽川から白い色を嫌う 竜が来て、かきむしってしまうのだと信じて、それ以後は、 赤壁に塗り、城の東に竜神様を祀り、竜神を鎮めた。 それ以後、赤壁城と言うようになった。 現在も、苗木城跡東側の岩窟に、竜神神社が祀ってある。 (案内板より)
(左)中津川道路から苗木城を見たもの。  (真ん中&右)城山大橋の龍のオブジェ♪
他にも、中津川道路には、上記の「赤壁城の伝説」が 書かれた説明板もある(^^)
苗木城の入口 苗木城入口を振り返って その先(右側が足軽長屋跡)
1番近い駐車場からだと、すぐ入口があるのでラク♪ しかも、すぐ足軽長屋跡だし(^^)右の写真奥が風呂屋門跡。
足軽長屋跡(左)&龍王院跡(右)
■足軽長屋跡…石垣によって造成された約30m程の広場には、 足軽の宿泊施設のほか、「小頭部屋」・「稽古場」等、 数棟建ち並んでいた。足軽が城に出仕(勤務)する場合、 最初にこの長屋に立ち寄ることになっていた。(案内板より)
■龍王院跡…足軽長屋の南側隣地に「光耀山金厳寺龍王院 (こんようさんきんげんじりゅうおういん)」 という領主遠山家の祈祷所があった。真言宗の寺院であったが、明治維新の 廃仏毀釈運動にて、神職が支配するところとなった。(案内板より)
先には巨石 途中には石垣も… 二の丸へ向かう道
迫力ある巨石!その近くに石垣も。 その道の横にも、空堀っぽい物を隔てて、二の丸へ向かう道もあった。
風吹門跡
二階が、「飼葉蔵(かいばくら)」として使われていた 風吹門は大手門とも呼ばれ、城下から三の丸への 出入口に位置する。門の右側(南側)に門番所が 併置され、昼夜を問わず人の通行を監視していた。 城主の在城時は開門し、江戸在府中は締め切られ、 右側の潜り戸が利用された。(案内板より)
(左=外側から。左に見えるのが、大矢倉跡の石垣!真ん中=内側。)
大矢倉跡
大矢倉は、外観からは二層に見えるが、実際は三階建てであった。 一階は三方を石垣で囲われ、倉庫として使われていた。 苗木城最大の櫓建築で、2階、3階の壁には矢狭間が設けられるなど、 大手門である風吹門や北側からの防御のために作られた。 (案内板より)
凄い石垣(≧▽≦)(右上=裏側から。 左=大矢倉上。右=上から三の丸。)
北門跡
城の外郭にあった土塀付きの門で、門番はいなかった。 城の入り口にある風吹門から見て、北側にあたる門で あるから名前がついていた。 ここから先、東側に下ると木曽川に、また北側の 道は家臣の屋敷群跡に通じる。 北門の脇にある小池は、雨水が頼りの貯水池で、 馬の飲み水に利用されていた。 (案内板より)
  裏側だからか簡素な感じ…。(右=大矢倉跡石垣を。)
駈門跡
(左&真ん中)外側からで、左側の石垣の雰囲気が物々しく感じる…。 (右)内側から見たもので、かなり急な道に。
駈門跡(大矢倉側から) 牢屋跡
■牢屋…苗木城には1つの牢屋しかなく、三の丸と二の丸を区切る 大門の左側奥にある。建物の規模は、2間、4間ほどの大きさで、 日のあまり当たらない大きな岩の上に建てられていた。 明治初年頃に起きた苗木藩の戦争の際には、多くの上層武士達が、 この牢屋に収監され、処断された事件が起きている。 (案内板より) (右)近くの石垣に穴が…。
大門跡(だいもんあと) 苗木城跡石碑
■大門跡… 苗木城の中で一番大きな大門は、二階建てで、 三の丸と二の丸とを仕切っていた。 門の幅は2間半、二階部分は物置に利用されていた。 領主の江戸参勤出立時などの大きな行事以外は開けず、 普段は、左側(東側)にある潜り戸を通行していた。 (案内板より)

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