トロとまったり・tripのページ(広島城 その1)

広島県 広島城

ひろしまけん ひろしまじょう

■広島城(別名=鯉城、在間城)=370円
開館時間
=9時〜18時(入館は17時半まで)
=9時〜17時(入館は16時半)・12/1〜2/28
※臨時開館時間の変更あり。
休館日=年末、他、臨時休館あり。
駐車場=近隣の有料駐車場利用 
※広島城のページは、2004/8/12の写真も使用。

2014/1/4現在

住所=広島市中区基町21-1
山陽自動車道広島ICから国道54号を広島市街方面へ行くと広島城。

広島城

下2枚の小さな写真をクリック→拡大。

太田川河口の三角洲に毛利輝元が築城した平城。 鯉城の由来は、一説には、この付近一帯が己斐浦(こいのうら)と呼ばれ、己斐の音が鯉に通じる事から呼ばれるようになった。
毛利氏は、南北朝時代から郡山城を居城とする一領主だったが、元就の代に中国地方の大半を支配する戦国大名に成長。 後を継いだ孫の輝元は、豊臣秀吉の聚楽第・大阪城を見物し、城下町と一体化し、政治・経済の中心地として機能する城郭の必要性を痛感。 瀬戸内海に面する太田川河口の三角洲に、天正17年(1589)4月15日鍬入式を行った。 築城工事は穂田(ほいだ)元清(元就の子)・二宮就辰(なりとき)(輝元側近)を普請奉行とし、天正18年末には堀と城塁が一応完成、翌年輝元は入城。

慶長5年(1600)関ヶ原の合戦後、輝元に代わり安芸・備後ニヶ国の領主とし福島正則が入城、外堀や外郭の整備を進め広島城を完成。 又、広島城下を通る様に西国街道(山陽道)を南下、出雲・石見街道を整備、その沿道を中心に町人町の大幅な拡充を図ったが、 洪水で破損した広島城の修築許可の不備を咎められ、元和5年(1619)芸備二ヶ国没収。 代わって和歌山から浅野長晟(ナガアキラ)が安芸一国・備後半国の領主とし広島城に入城。 以後、明治2年(1869)の版籍奉還までの約250年間、浅野氏が12代にわたり広島城主を勤めた。 廃藩置県以後、城内には旧陸軍の施設が徐々に設けられ、明治7年、本丸・三の丸で出火、本丸御殿等も焼失。 大天守、中・裏御門、二の丸等を残すのみとなったが、昭和20年(1945)8月6日の原爆で全て壊滅。 現在の天守閣は、同33年(1598)に外観を復元し建造されたもの。

本丸・北側

【パノラマっぽく加工】外郭から内堀を挟んで。石垣だけでも格好いいけど、天守が見えてさらにいい!

本丸・北東側の石垣&北東の二重櫓跡

【パノラマっぽく加工】写真左側が裏御門跡。

【左】パノラマっぽく切り取り。裏御門跡側から櫓跡方面。ここの面の唯一の張り出し。
【右】北東の二重櫓跡。

【左】外郭(北側)から。
【真ん中】帯曲輪から。手前が掃除道具置き場に…。
【右】本丸上段から。

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