トロとまったり・tripのページ(亀居城 その1)

広島県 亀居城

ひろしまけん かめいじょう

■亀居城=見学自由
■亀居公園
駐車場=無料駐車場

2008/12/27現在

住所=大竹市小方2丁目
この時は、山陽自動車道 大竹I.Cを下りて、大竹インター入口信号で国道2号を横切って西へ。 その先の交差点を右折、踏切を渡って少しして左折。 I.Cの高架をくぐって少しして、山陽自動車道をくぐる手前の道を左折。 道なりに坂を上がると駐車場。

亀居城

【左】写真をクリック→拡大。
【右】写真をクリック→拡大。案内板の現在地は、国道2号線付近の石碑と説明碑の場所。

慶長5年(1600)関ケ原の合戦に敗れた西軍の盟主・毛利輝元は、領国8ヶ国のうち、防長2ヶ国を与えられ、その本城広島を去り、 東軍に味方した豊臣恩顧の武将・福島正則が芸備二ヶ国を与えられて、その後に入った。 広島に入った正則は直ちに領国の経営に乗り出す一方、小方・三好・東城・三原・神辺・鞆に支城を置いて守りを固めた。 この時、小方の城将には甥の福島伯耆(1万石)を配備して、慶長8年(1603)から築城を始めた。 築城に際しては、水野次郎右衛門が総奉行、片尻飛騨が大工棟梁として指揮にあたった。 5年の歳月を経た慶長13年(1608)にこの城は完成したが、不幸にして城将福島伯耆は、完成の前年他界したので、 これに代わって守将山田小右衛門、森佐助の両名が兵を率いて入城した。 海に面したこの城の規模は、面積10町歩(992アール)、周囲18町(1960m)に及び、山頂に本丸、これに二の丸、三の丸、 有の丸、なしの丸、松の丸、名古屋丸、捨の丸の8台が続き、本丸と有の丸の横に詰の丸、その下に鐘の丸、妙見丸があって、 合計11台よりなり、また海に面しない部分の周囲には、新町川の流水や海水を導入した堀や、空堀が巡らされていたといわれている。 なお、この城が亀居城と称されたのは、城地が亀の伏した形に似ていたことに由来する。 かくして亀居城は、広島本城の支城としても、毛利氏に対する軍事的見地から脚光を浴びたが、この頃、 正則に対する幕府の圧力は非常に厳しく、完成後間もない慶長16年(1611)、この城は取り壊される運命となった。(案内板より・地図も)

国道2号線付近

【左&真ん中】国道2号線付近の入口と説明碑。
【右】石碑付近から。

駐車場
坂を上がって…
三の丸の石垣

高速道路が見える駐車場以外無かったので、ここにとめて、三の丸の三段の石垣を見ながら、坂を上がって行く。

分岐点

【左】写真左側へ行くと、本丸方面(詰の丸、二の丸も)。このまま進むと三の丸。
【右】本丸方面(詰の丸、二の丸も)へ。

詰の丸

【左】詰の丸。
【真ん中】詰の丸から本丸の石垣を。
【右】本丸下側から詰の丸方面。

この詰の丸広場の外周りには、亀居城を築いた当時の石垣が、延長130mにわたって残っている。 島原の乱に懲りた幕府が石垣まで壊させた残骸である。 石垣石には、築城の際に彫り付けた刻印が、23種類、97個も見受けられる。(大竹市教育委員会の案内板より)

▲上へ戻る