トロとまったり・tripのページ(出水麓 その1)

鹿児島県 出水麓

かごしまけん いずみふもと

■出水麓(別名=出水外城)
■出水麓武家屋敷群=見学自由
駐車場=無料駐車場
(写真)竪馬場。

2012/5/3現在

住所=出水市麓町
この時は、出水城の後に向かったので、 国道328号を進んで、出水麓武家屋敷群の案内に従って右折。 その先の案内に従って斜め右へ。道なりに進み、小学校の南側を通って、 小学校の角(大型バス駐車場やトイレがある所)を左折。 小学校の北側を西へ進み、護国神社を過ぎて右折(駐車場の案内あり)、 右側に駐車場。案内に従うと、遠回りかな。

出水麓武家屋敷群

江戸時代、薩摩藩は鶴丸城を本城とし、領内各地に113(のちに102)の外城(とじょう) と呼ばれる行政区画を設け、統治に当たっていた。 外城における統治の中心地を麓と呼び、出水麓は藩内で最も古く大規模で、他の外城も出水に倣ったといわれている。 出水藩は、「高屋敷」(広さは約60ha、うち約43.8haが重要伝統的建造物群保存地区に選定) と平良川左岸の「向江」の両武家地、そして間に挟まれた町人地(本町・中町・紺屋町)からなっていた。 ここ「高屋敷」は、1600年頃から約30年ほどの歳月をかけて、城山から米ノ津川に続く起伏の多い丘を整地し、 道路を掘り、川石で石垣を築いて作られたと伝えられている。 現在でも、建設当時から改変される事の少なかった街路、その両側に築かれた石垣や生垣、 庭の木々が武家門や垣間見える武家屋敷と相まって、落ち着いた街路景観を醸し出している。(出水市の案内板より・絵図も)

竪馬場
仮屋馬場
牛車

【左】駐車場や税所邸、竹添邸がある通りで、真ん中の写真の石垣の角(石柱がある所)から写したもの。
【真ん中】出水小の前の通りで、護国神社が写真左側にある。
【右】いずみちゃん(^^)護国神社の所が乗り場。

御仮屋跡&御仮屋門

出水郷を統治していた薩州島津家は、第7代忠辰の時、文禄2年(1593)に朝鮮出軍中に改易され、 出水の地は秀吉の直轄地となっていたが、慶長4年(1599)島津義弘の朝鮮引揚げの軍功によって、再び島津氏に返還された。 この武家門は、義弘が居住していた帖佐(今の帖佐小学校)の門を出水に移し、 出水へ隠居して薩摩北辺の守りに任じたいと思い移築を命じていた。 義弘の移住は実現しなかったが、以後この地に「御仮屋」が置かれ、その「御仮屋門」として今に残っている。 「御仮屋」は、江戸時代、藩主が地方巡狩や参勤交代の旅の際の宿泊所であった。(出水市教育委員会の案内板より)

五万石溝(右=屋地ノ後)

ここは、昔、五万石溝が掘り通されていたところである。 ここに残る石橋は、「糸巻橋」と呼ばれ、大正7年(1918)の架橋である。 五万石溝は、藩主島津吉貴の命により、宝永年間(1704〜1711)の頃着工し、 およそ20年余りの歳月をかけて享保19年(1734)に完成した。 米ノ津川上流の下平野に井堰を築いて取水し、水の頭・折尾野・鍋野・城山等の山麓を迂回して大野原を横切り、 洗切海岸(福之江)まで20kmに及ぶ用水路である。途中に、岩山をくり抜いた「隧道」23ヶ所、 鍋野川と平良川の川底を掘り通した「底水道」2ヶ所がある。 また、五万石溝の水を樋之谷川と神戸川の所で、水平交差する「移し川」をしたところが2ヶ所ある。 五万石溝は、勾配5000分の1でシラス地帯を通るので、土手の崩壊防止や漏水防止対策が難儀であった。 また、2ヶ所の底水道や23ヶ所に及ぶ隧道工事は、岩盤をのみで彫る手作業であったから、 大変な難工事であったろうと推測される。 昭和52年(1977)国営出水平野水利事業の完成によって、五万石溝はその役を終えた。 その後、霧降橋の所から、出水小学校裏・上竪馬場・西の口・小原の底水道の所までは、埋め立てられて道路敷になった。 (案内板より・絵図も)

【右】屋地ノ後の通り。五万石溝から近かったので、ここで紹介。

税所(さいしょ)邸

「郷のあつかい役を勤めた郷士の家」主屋は玄関・次の間・座敷が一列に並び、 それらが馬場(街路)に平行に配置されて堂々とした構えをつくっている。 これは、出水麓を代表する古い形式の武家住宅である。(出水市教育委員会の案内板より)

【左】この辺りの家の門は、奥まっていて、見え辛くなっている。
【真ん中】表玄関。 【右】弓的場。

【左】下座敷の上方だったかな…。
【真ん中】下座敷。薄暗さの中に、落ち着きを感じる。
【右】広間。

【左】奥座敷。
【真ん中】次の間。端午の節句の飾りつけかな(^^)
【右】上座敷。今にも対面しそうな雰囲気。

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