トロとまったり・tripのページ(志布志城 その1(内城・1))

鹿児島県 志布志城(内城)

かごしまけん しぶしじょう うちじろ

■志布志城(内城)=見学自由
駐車場=無料駐車場
(写真)大空堀。

2012/4/30現在

住所=志布志市志布志町
この時は、志布志駅の北側の国道220号を東へ進み、権現橋を渡って、権現橋信号で県道3号へ左折。 すぐ左折して橋を渡り、信号のある交差点を右折。次に右折、左折、少し走って直進の県道499号へ。 右側に駐車場がある。徒歩でその先の右斜めの道を進むと、右側に大手口(小学校裏門入口)。

志布志城(内城)

内城は、志布志城(内城・松尾城・高城・新城の総称)の主体部であり、肝付氏の没落による天正5年(1577)の島津氏初代地頭、 鎌田出雲守政近まで、およそ400年間の豪族の興亡の歴史を繰り返している。志布志城の最初の築城年代は分からない。 南北朝期までは、本丸と矢倉場といわれる曲輪のみであり、新納氏の時代に中野久尾・大野久尾と拡大し、内城本丸の山下に居館を置いた。 戦国期に現在見られるような直線連郭型式の山城となり、常に当地方の支配者の居城であったが、徳川幕府の一国一城制により廃城となった。 内城は北東から南西に延びた細長い丘陵の先端部に立地しており、北東部のみ台地に繋がっているので、ここに深い堀切を設け、台地と丘陵とを切り離している。 そして細長い丘陵に5つの曲輪を直線的に並べ、各曲輪は互いに空堀によって区切られている。

志布志城には、志布志城五口と称して大手口・西谷口・沢目記口・小渕口・向川原口の5つの入口があるが、この他に留城戸1つがある。 空堀は、丘陵を横断する5つの大きなものと、これに直角に交わり、丘陵と並行して長く続く2つとから成っている。 曲輪は、深堀で仕切った上、さらに浅堀で2つに分割し、浅堀の中央付近で両側の曲輪の虎口に繋がるというのが基本である。 本丸(曲輪3)の土塁は大きく、北の隅は大きく張り出し、高さ4mの櫓台となっている。 中野久尾の両曲輪とも二段で、曲輪5の虎口は中仕切りの堀底から登り、下段は四面とも土塁で囲まれていて、 南西のみ空き、坂虎口となっており、これを守る土塁が張り出している。 ここが当城で最も手が込んでいる。大野久尾の曲輪は農道で中仕切りの空堀が埋没している。 中世の新納氏200年間の居城の守護神である三宝荒神が本丸跡に、また、新納家始祖新納時久公の墓が、矢倉場の旧新納家墓地跡に残っている。 この内城は、空堀の規模が大きく縄張りも明快で、港・河口・街道に望んで望遠観察にも適している。 また、中世城下町の存在も予想されており、伝承にも恵まれた、南九州でも有数の山城である。 (説明文と模式図は案内板より、地図及び縄張図は志布志市教育委員会の案内板より)

駐車場
溝の蓋
分岐点

【左】駐車場の表記が無いけれど、ここに立つ「志布志まちあるきマップ」に、 Pマークがあるので、観光用に使用していいみたい。広いし、安心して見学できるのが嬉しい(^^)
【真ん中】こんな素敵な絵が蓋に♪
【右】駐車場から徒歩で、写真右斜めの道を進んで小学校へ。 ちなみに左折すると、志布志城(松尾城)へ。

大手口
小学校側から大手道
地頭仮屋跡

【左】「志布志城(内城)跡入口」や「志布志小学校裏門入口」の標柱が立つ大手口。 そこから坂を上がると、右側に小学校(地頭仮屋跡)がある。
【真ん中】大手口を振り返って。石垣の所に、説明板が立つ(^^)
【右】志布志小学校が、地頭仮屋跡。

民家の間を…
志布志城(内城)入口
矢倉場跡の北側

【左】なんだかドキドキ…。
【真ん中】標柱と散策コースマップが立つ。
【右】矢倉場へ向かう前に、空堀が見えた♪

矢倉場跡(曲輪1)

内城は、志布志城を構成する4つの山城(内城・松尾城・新城・高城)の中で、中心的な役割を果たしたと考えられている。 曲輪1は内城の中心部を構成する曲輪であり、矢倉場と呼ばれている。 矢倉とは、弓矢を収める倉庫の事であり、同時に防御のための施設をも指す用語である。 このことから、矢倉場と呼ばれるこの曲輪には、防衛のための建物施設が存在したと推測されている。 この曲輪には「新納(にいろ)時久の墓」として、城主であった新納時久の供養碑が明治時代に建立されている。 2004年度に実施した確認調査によって、この曲輪が東西で上下段に分かれた高低差3.5mの構造であったことが確認された。 2009・2010年度に実施した発掘調査によって、この曲輪からは多数の柱穴や土坑、溝跡等が検出された。 柱穴には、中に柱を支える為の石を備えたものがあり、上下2ヶ所に石を有し、2時期に渡って使用されたと考えられるものも存在する。 方形土坑と呼ばれている、ほぼ垂直に掘り込まれた長方形の土坑は、トイレとして利用された可能性が考えられる。 この曲輪から中国産の磁器、備前や瀬戸の陶器、土師器などが出土し、その主な年代は14〜16世紀である。 また、約4,000年前の縄文土器なども出土し、山城の築城以前から遺跡が存在する場所であったことをうかがわせる。 (志布志市教育委員会の案内板より)

本丸登り口 // 本丸・下段付近の空堀

【左】本丸登り口。危険防止の為、大雨の時は立入禁止だそう。
【真ん中&右】堀底道。深くて格好いいなぁ(^^)

本丸・下段(曲輪3・下段)

内城の中心となる部分を地元では本丸と呼んでいる。曲輪が上下段に分かれていることから、それぞれが本丸上段・本丸下段と呼ばれている。 2006年度から2008年度にかけて実施した発掘調査によって、本丸下段からは柱穴や土坑、道跡、堀、火を使った跡等が検出され、 碗や皿、壷、甕等の陶磁器や土師器、釘や金具などの金属製品、銅銭やガラス製品の破片、鉄滓(てっさい)が出土した。 出土した陶磁器は、14〜16世紀の物が中心で、備前焼等の国産陶器のほか中国や東南アジアの製品がある。 また、京都周辺で出土する土師器等もあり、国内外の様々な地域の遺物が出土する事は、志布志の港を通じた交易をうかがわせる。 検出された柱穴から、少なくとも2棟以上の建物が存在していた事が推測され、 一方で建物よりも土坑の数が多く、鉄製や鍛冶の際に出る鉄滓が多く出土していることから、 居住地としての使用と工房のような作業場としての使用が推測される。(志布志市教育委員会の案内板より)

【左】本丸・下段へ。 【真ん中】土塁♪
【右】木々の隙間から、さんふらわあが見えた(^▽^)♪

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