【小諸城 その1】

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長野県 小諸城 ながのけん こもろじょう
■小諸城(別名=白鶴城、酔月城)
■懐古園=300円(散策(動物園含む)のみの場合)
※徴古館、藤村記念館他の共通券もあり。
開園時間=8時半〜17時(動物園は16時半まで)
休館日=無休(12月〜3月中旬は水曜、年末年始)
駐車場=有料駐車場(12時間以内=500円)
                  (2009.9.21現在)
住所=小諸市丁311
上信越自動車道 小諸I.Cから県道79号・ 国道141号を2kmの本町交差点を右折、 300m先の懐古園入口交差点を左折、県道142号を200mくらい走ると、 右に懐古園駐車場。でも、右折しづらいので、こっちから 来るのは少し不便かも。

小諸城 (写真をクリック→拡大)
小諸城は、千曲川から切り立った崖の上にあり、 浅間山の火山灰台地が浸食してできた田切地形の 谷に囲まれている。 この城の堀は、浅間山の火山灰層で、水を用いずに 崩れやすい断崖が堅固な防塞になっている。 また城下町より低い所に城内が築かれた特徴のある穴城である。
小諸城の起りは、平安末期から鎌倉時代にかけて源平盛衰記や平家物語に 登場する木曽義仲の武将として名をとどろかせた小室太郎光兼が現城址の東側に 館を築いてきた。その後大井光忠が、小室氏を抑えて鍋蓋城を築城、 さらに乙女坂城(白鶴城)とも云う現在の二の丸跡を構えたが、 武田信玄の攻略により落城。信玄は、この地が重要である事から山本勘助と 馬場信房に命じて、築城したのが現在の小諸城跡で、酔月城と名付けた。 武田氏が滅び、織田信長の将・滝川一益の領地となったが、 信長が倒れると、北条氏は滝川勢を蹴散らして小諸へ侵攻。 しばらく徳川、北条、上杉に真田も加わり争奪が展開、 やがて豊臣秀吉の仲裁もあり徳川氏の所領となった。 その後、北条軍が真田領を略取したとして紛争を禁じた 関白秀吉は、天正18年(1590)小田原征伐で北条氏を討ち取り、 天下統一。徳川家康が関東に転封され、仙石秀久が小諸5万石の 大名として小諸城主となる。秀久は、秀吉の許しを得て、 本丸に、桐紋の金箔押瓦を使った三層の天守閣を備え、 二の丸、黒門(一の門)、大手門(四の門)、足柄門を 建てて現在の小諸城が完成した。 慶長5年(1600)関ケ原の戦いに中山道を進んだ徳川秀忠の 東軍が小諸城に入る。この時、西軍・真田氏の上田城を 攻めた「上田合戦」では、秀忠軍が苦戦の上に敗退、 天下分け目の合戦だった関ケ原にも遅参してしまうという 逸話で知られている。 小諸藩の初代藩主となった秀久は、現在もその姿を 残す大手門や石垣などの城郭整備をはじめ、小諸の城下町や 街道の整備を行った。仙石氏が上田藩(長野県上田市)に 移封されるまでの32年の間に現在の小諸の町の原形が築かれた。 その後、城主は徳川・松平氏などに変わり、与板藩 (新潟県長岡市)から移封された牧野氏が10代・170年に渡り 藩主を勤めた。廃藩置県で役割を終えた小諸城には 「懐古神社」を祀り、三の門より城内を「懐古園」と呼ぶようになった。 (案内板より)
駐車場 SL
駐車場から城跡へ向かう途中にあるSLは、 2009.9.21再訪時も健在だった♪嬉しいな。 (2005.4.24撮影)
駐車場から入口へ 徴古館
(右)三の門付近に仙石秀久の「丸に無の字」 「永楽銭紋」のついた幟が。 (2枚=2005.4.24、右=2009.9.21撮影)
三の門
小諸城は慶長元和年間(関ヶ原役前後)にわたって、 時の城主仙石氏が築城した。この三の門も大手門と 同様に一連の造営の中で創建されたもの。 しかし寛保2年(1742)小諸御城下を襲った大洪水により 三の門は流失し、約20年後の明和年代に再建されて、現在に 至っている。寄棟造・桟瓦葺の櫓門で一階は桁行3間(1間は 約1.8m)北脇に潜戸を構え、隅金具、八双金具等が 施してある。二階は両側に袖塀を設け、 矢狭間、鉄砲狭間が城郭の面影を残している。 桁行5間、梁間2間で内部は住宅風の一室になっている。 大手門とともに小諸城の貴重な建造物として、国の 重要文化財指定を受けている。 (文化庁・小諸市教育委員会・懐古神社の案内板より)
「懐古園」の大額は、徳川家康公の筆によるもの なんだそう(^^) (2009.9.21撮影)
水櫓跡 焼石
水櫓跡は、水車を使い川水を揚げ、城内へ給水したところ。 (碑より)  紅葉がいい感じ♪
(右)動物園から三の門へ向かう道の石垣は、 浅間山の噴火の際の石を使用しているんだそう!(2009.9.21撮影)
二の門跡
(左)二の丸・南側の石垣を見ながら進むと、二の門跡。 (真ん中)右に折れて。 (右)振り返って。下には礎石。
(真ん中=2005.4.24、他=2009.9.21撮影)
二の丸・虎口&南側の石垣
(左)二の丸への虎口&石段。
(右)正面は、二の門方面。
 (2009.9.21撮影)
明治4年(1871)北国街道整備の際、
ここにあった石垣は、道路の端縁石
に用いられ、その後長い間火山灰の
崖のままだったが、昭和59年
(1984)に当時より大きな石を用いて
復元した。(案内板より)
二の丸
石段の上が二の丸跡で、白鶴城が あった。徳川秀忠が上田の真田父子 に阻まれて二十数日逗留したため、 関ヶ原の合戦に間に合わず、家康に 大変叱られたといわれている。 (碑・他より)
 桜の時期は素敵。 (左=2009.9.21、他=2005.4.24撮影)
番所跡 中仕切門跡 中仕切門跡から二の丸方面
(左)二の丸虎口を出て右側。 (真ん中)礎石。 (右)中仕切門から正面の二の丸の虎口を。 (2009.9.21撮影)
北丸跡(弓道場)
隠居所の跡。   (真ん中)弓道をしていなかったので、堂々と撮影♪ (真ん中=2009.9.21、他=2005.4.24撮影)
南丸跡
南丸は、武器庫等があった所。
鶯石は、城主の通行や祝い事
のある度に「うぐいす」の鳴声を
たてたといわれる。(碑より)
(左&右)虎口&鶯石。左上?
(下真ん中&右)南西にのびる
石垣と虎口以外の石段を。
(左下&右下)2005.4.24撮影。
(他3枚)2009.9.21撮影。

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