【松本城 その1】

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長野県 松本城 ながのけん まつもとじょう
■松本城(別名=深志城)
観覧料金=600円(他、共通券あり。)
公開時間=8時半〜17時(入城は16時半まで。)
休館日=年末年始。
駐車場=近隣の有料駐車場    (2007.7.29現在)
住所=松本市丸の内4番1号
長野自動車道 松本I.Cを、左の松本19号と書かれた国道158号へ。 そのまま進んで、直進の国道143号へ進み、中央1丁目交差点を左折、 そのまま進んで、蟻ヶ崎高交差点を右折、左側に市営開智駐車場。 今回利用した松本城大手門駐車場へは、中央1丁目交差点を過ぎて、 伊勢町交差点を左折、中央大手橋を過ぎて、西堀公園前を右へ。

松本城 (上から2枚をクリック→拡大)
松本城は、永正元年(1504)信濃守護・小笠原氏の氏族・島立右近貞永が、 小笠原氏の本城、林城の前面を固めるために築いた深志城が創始と伝え られている。 戦国動乱の世となり、信濃府中へ天下を目指す甲斐の武田晴信(信玄)が、 侵入してきた。天文19年(1550)に、林城は武田軍の手に落ち、小笠原長時は、 越後の上杉へ走った。 この時から府中は武田の支配下に入り、武田流の土木技術によって 広大な縄張りが行われ、三重の堀が姿を現した。天正10年(1582)、 武田勝頼が自害し、織田信長が本能寺で倒されると、再び世の中は 乱れた。この機に、長時の子・小笠原貞慶が旧領府中を回復し、 深志城の名を松本城と改め、城郭の整備拡充を行った。 天正18年(1590)、小田原城の北条氏が、豊臣秀吉に降ると、秀吉は 直ちに国割りを行い、松本城に石川数正を入城させた。 この石川数正・康長父子によって城郭の整備が進み、特に康長(三長)は、 文禄2年〜3年(1593〜1594)にかけて、門・櫓を造り、堀、石垣を築き、 本丸・二の丸御殿を造営し、天守を築造した。 時あたかも天下人が最後の雌雄を決する緊迫した情況下にあり、豊臣の 威光を背景にして、火縄銃を主要武器とする集団戦に備えた強固な平城を 完成させた。 そして泰平の世。寛永10年(1633)に入城した松平出羽守直政によって、 辰巳附櫓と月見櫓が敷設され、無骨な古武士の風貌を思わせる天守に、 複雑な構成と彩りをそえ、近隣に類を見ない名城となった。 その後、松本城は、享保12年(1727)には本丸御殿の焼失、明治維新の 天守破壊や売却、明治30年代の倒壊などの危機を人々の努力によって、 切り抜けてきた。(北不明門馬出跡の碑より)
外堀(南側) 松本城天守の石碑 二の丸
二の丸には、東から面積約2,330uの二の丸御殿(藩庁)、 面積約700uの古山地御殿(城主私邸)、藩の籾蔵、幕府の 八千俵蔵(備蓄米2千石貯蔵)、焔硝蔵が並び、また、外敵に 備えて5棟の隅櫓が置かれていた。(案内板より)
二の丸南西側から、天守から黒門を見たもの。 格好いい!(※パノラマっぽく加工) 
八千俵蔵跡 埋橋 足駄塀跡
埋橋は、天守をバックに撮れる撮影スポット。 到着時は、凄い人だったぁ(@o@)というわけで、 空いた頃に撮影(^^;)
松本博の石碑&マスコットキャラクター夢丸 作事所跡
(左&真ん中)平成5年(1993)に開催された国宝松本城400年まつり の碑と石像。右側に写るのは西側の外堀。
太鼓門
桝形門は、石垣・土塀を四角に囲って、 外と内に門を二重に構えたものである。 松本城には、大手門・太鼓門・黒門の3つの桝形門があった。 太鼓門は、天守築造後の文禄4年(1595)頃に、石川康長によって 築造された。この門の名称の由来となった太鼓楼は、 門台北石垣上に置かれ、太鼓や鐘がおかれて様々な合図が 発信され、また櫓門の脇には、築造者の官名に因む、 重量22.5tの巨石、「玄蕃石」を控え、威風堂々とした 桝形門を形造っていた。 一般に、城の重要な門には、威厳を添えるため巨石を据えることが 多かった。この玄蕃石も同様な意味を持つものである。 石川康長のころには、天守を中心として本丸二の丸(内曲輪)を 「御本城」として整備拡充し、三の丸(外曲輪)には、武士を集住 させるための、武家屋敷は建設途上であり、5ヶ所の城戸(柵門)は いずれも櫓門に変えられたが、大手門が桝形門に整えられたのは、 康長の改易後に入封した小笠原秀政の治世下と考えられる。 (松本市教育委員会の案内板より・絵図も)
(左)鵜首から二の門(高麗門)。 (真ん中)桝形と二の門の裏側。 (右)桝形から一の門(櫓門)。 入口左に玄蕃石。
(左)太鼓門・一の門を内側から。 (真ん中)石垣横の石段を上がって…。 (右)一の門の室内へ。ここは、太鼓楼。
(左)とてもきれいな室内。 (真ん中)松本城の模型。 (右)太鼓門・一の門の鬼瓦と鯱。 兜を被ってるみたい(^w^)
(左)この切株は、平成8年〜11年に太鼓門が復元された際、 櫓内の梁に使用された樹齢140年の赤松の根元。 (案内板より)  (真ん中&右)太鼓門・二の門前の鵜首から、 二の丸東側の外堀を南方面、北方面を見たもの。
二の丸御殿跡
二の丸御殿は、初め、藩の副政庁として造営されたが、 享保12年(1727)本丸御殿焼失後は、正政庁となった。 廃藩後、一時、筑摩県庁舎として用いられたが、 明治9年(1876)6月焼失した。 (松本市教育委員会の案内板より)
 入口から入り、式台から御殿跡を眺める。
天守と御金蔵 味噌部屋 二の丸・丑寅櫓跡
(左)二の丸御殿から、天守が♪ 右に小さく写るのが、御金蔵。 (真ん中)手前の部屋は、なんと味噌部屋! 
二の丸裏御門橋 本丸北門の土橋(正面) 二の丸・丑寅櫓跡
(真ん中)逆光の二の丸裏御門橋から、 本丸北門の土橋を。 (右)内堀を挟んで、丑寅櫓跡を。白鳥がス〜イスイ。

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