トロとまったり・tripのページ(備中高松城 その3)

蛙ケ鼻築堤跡

■蛙ケ鼻築堤跡(かわずがはなちくていあと)、■高松城水攻め史跡公園(住所=岡山市立田)
この時は、国道180号を岡山市街方面へ進み、 高松稲荷信号を過ぎて、陸橋のある左側の路地へ(案内板あり)。小川を渡って、突き当りを左へ。

【左】築堤跡の上にある石碑。【右】土塁上。

秀吉は高松城の攻略を、軍師黒田官兵衛の策を採用して水攻めにし、城地の南東約700mの山根(蛙ケ鼻…かわずがはな)から、 西北西約1,500mの足守川上流まで約3kmの堤防を、僅か12日間で築いたと伝えられている。 堤防の内側は約200haの人造湖となり、外側には部隊を布陣させ、城を逆封鎖してしまった。 江戸時代の地誌類では、基底部幅24m、高さ8m、上幅12mの大堰堤(だいえんてい)と記録されている。 近年の一部発掘調査によって基底部幅約22〜24m(12〜13間)という事が確認され、 築堤に際して土留めなどに使われたと思われる木杭や、土俵・むしろ等が確認された。 (岡山市・岡山市教育委員会の案内板より)

【左&真ん中】築堤跡は、高松城水攻め史跡公園に。
【右】巨大な最上稲荷の鳥居。

高松城水攻め鳴谷川遺跡

■高松城水攻め鳴谷川遺跡(住所=岡山市長野)
この時は、高松城址公園の東側の県道241号を北上し、 県道61号へ左折。すぐ左側に下りの道があるのでそちらへ。 少しして正面に曲がり角のスペースに路駐。その付近に説明板や石碑がある。

中国地方の平定を目指す織田信長は、この地方を支配していた戦国大名の毛利氏の攻略を羽柴秀吉に命じた。 秀吉は天正10年(1582)3月に、兵力3万を持って備中に攻め入り、国境の緒城を攻略したが、 備中高松城だけは攻めあぐねた。 このため、城の近くを流れる足守川をせき止めて水攻めにして、城主・清水宗治に降伏を迫った。 水攻めにあたって、足守川の水だけでは不足の場合を考え、 高松城の背後の山間を流れる長野川をせき止め、「なしい乢」を約9m掘り下げて水を高松側に流し込もうとした。 工事は難行し、410mのうち91mを残すところで開城となった。 工事奉行は間に合わなかった責を負って自刃したといわれている。 里人はこれを哀れみ、塚をたてて供養した。 この所は堰堤の跡で、水奉行の墓として南方約50mにある。(岡山市教育委員会の案内板より)

【真ん中】備中高松城水攻長野川堰止並水路遺跡の碑。 大小の石がゴロゴロ!そりゃ、工事も大変だぁ(^^;)

備中高松城 2009.4.30記

水攻めで大変だったとは思えないくらい、今ではのどかな公園。 近くにある和菓子屋さんで、水攻饅頭というものが売っているらしいと下調べしていたけれど、丁度、木曜日で定休日! 包み紙に陣営図が書かれているらしいから、楽しみだったのに…。食べたかった…。 次に、蛙ヶ鼻築堤跡へ。高松城の後だけに、こんな所まで!?なんてビックリ(^^;) その後、来た道を戻らずに住宅街の道へ進んだら、半端無く狭い! 曲がるのに大変苦労した〜(^^;)素直に来た道で戻ればよかった(^-^;) 高松城水攻め鳴谷川遺跡は、行く予定ではなかったけれど、パンフを見ていたら気になって(^^) 折角なので行ってみた♪石がゴロゴロ凄いから、工事が難攻するのも分かる気がする。う〜ん。水奉行もなんて気の毒な…。 そういえば、川の反対側の土塁(足元)に、水奉行の文字が書かれた紙のヒラヒラが刺さっていたから、祀ってあったみたい。

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