トロとまったり・tripのページ(備中高松城 その1)

岡山県 備中高松城

おかやまけん びっちゅうたかまつじょう

■備中高松城=見学自由
■高松城址公園(無料駐車場あり)
■高松城水攻め史跡公園(蛙ケ鼻築堤跡)
=見学自由(無料駐車場あり)
■高松城水攻め鳴谷川遺跡=見学自由(路駐)
※「境目七城」の1つ (宮路山城冠山城高松城
加茂城日幡城松島城庭瀬城撫川城 ) )
(写真)二の丸から本丸を。

2009/4/30現在

住所=岡山市北区高松
この時は、足守辺りを見学後なので、国道429号を南下し、小山信号で国道180号へ左へ(岡山市街へ)。 高松中学校東信号の次の信号を左折(案内板あり)。線路を渡って少しすると、左側に駐車場がある。

備中高松城

■高松城は、備前国に通じる平野の中心しかも松山往来(板倉宿から備中松山城へ至る)沿いの要衝の地にあり、天正10年(1582)の中国役の主戦場となった城跡。 城は沼沢地に臨む平城(沼城)で、石垣を築かず土壇だけで築成された「土城」である。 城の周辺には、東沼、沼田などの地名に象徴されるように、沼沢が天然の外堀をなしていたのが窺われる。 縄張りは、方形(一辺約50m)の土壇(本丸)を中核にして、堀を隔てて同規模の二の丸が南に並び、さらに三の丸と家中屋敷とが、コの字状に背後を囲む単純な形態である。 本丸跡は、江戸時代初期にも陣屋として活用されていた。

■中国役…全国統一を目指した織田信長は西進を図り毛利方と対峙した。 毛利方は、備中境に境目七城(高松城・宮路山城・冠山城・加茂城・日幡城・庭瀬城・松島城)を築き備えた。 織田軍の先鋒・羽柴秀吉は、天正10年(1582)に3万の軍勢をもって同国南東部に侵攻し、境目の城を次々に攻略した。 秀吉は、高松城の城主・清水宗治に利をもって降伏するよう勧めたが、義を重んじる宗治はこれに応じなかった。 高松城は、深田や沼沢の中に囲まれた平城で、水面との比高が僅かに4mしかなく、人馬の進み難い要害の城であった。 秀吉は、参謀黒田官兵衛の献策で、高松城の周囲に約2.6kmの堤防を短期間(12日間)で築き、折からの梅雨を利用して足守川の水を引き入れ水攻めを敢行した。 籠城1ヶ月余を経て、城兵が飢餓に陥った頃、本能寺の変(6月2日の未明)が起きた。 秀吉は毛利との講和を急ぎ、毛利方の軍師・安国寺恵瓊を招き、「今日中に和を結べば毛利から領土はとらない、 宗治の首級だけで城兵の命は助ける」という条件で宗治を説かした。 宗治は「主家の安泰と部下5千の命が助かるなら明4日切腹する」と自刃を承諾した。 時に6月4日巳の刻(午前10時)湖上に船を漕ぎ出し、秀吉から贈られた酒肴で最後の宴を張り、誓願寺の曲舞を舞い、 「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」と辞世の歌を残して自刃。46歳の生涯だった。 秀吉は、高松城主・清水宗治の切腹と開城を条件に休戦を成立させ、ついに高松城を落城させた。 本丸跡には明治末年に移転改葬された宗治の首塚があり、北西の家中屋敷跡の一画に宗治の遺骸を埋葬した胴塚も残されている。 (岡山市教育委員会の案内板より)

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