トロとまったり・tripのページ(庭瀬城)

岡山県 庭瀬城

おかやまけん にわせじょう

■庭瀬城(別名=芝場(こうげ)城)=見学自由
■清山神社
駐車場=無し(路駐スペースあり)
※「境目七城」の1つ (宮路山城冠山城高松城
加茂城日幡城松島城庭瀬城撫川城 ) )

2009/4/30現在

住所=岡山市北区庭瀬
この時は撫川城からだったので、県道162号を西へ進み撫川橋信号で左折。 最初の橋を左へ渡り、すぐ右折して左折。突き当りを右折して、次を右折、 すぐ左折して、道なりに進んで、左折して右折すると左側に駐車場。 庭瀬城は、駐車場から見える東側の道を進み左折、次に右折すると右側に清山神社。
※上記の撫川城までのアクセスは、路地が凄く狭く大変&怪しいので、参考までに留めて下さい。

庭瀬城

室町時代の末頃(約400年前)備中松山の三村元親は備前の固めとしてこの地に築城した。 付近の地名から芝場(こうげ)城とも呼ばれた。一帯は泥沼地で非常な難工事であった。 その後、宇喜多の重臣・戸川肥後守達安が入り(1602)古城を拡げ城下町を整えた。 元禄12年(1699)板倉氏の居城となり明治を迎えた。自然石の石垣を巡らした堀も良く残り、沼城の典型を示している。 寛政5年(1793)板倉勝喜は城内に清山神社を建て板倉氏中興の祖重昌、重矩父子を祭り歴代の遺品を収蔵した。(遺品は現在、吉備公民館に収蔵)(案内板より)

【左】案内板の写真をクリック→拡大。
【右】(パノラマっぽく加工)神社方面。

城址碑
清山神社境内
城址碑

【左】いびつな形の城址碑。
【真ん中】遊具が置かれた境内。
【右】境内にはぎゅうぎゅうに書かれた城址碑。

清山神社から

【パノラマっぽく加工】こんなに住宅街なのに、こんなに広い堀が整備されているって凄い(@@)

表御門跡

絵図によると表御門跡かな。 橋には「大手門・庭瀬城」と「庭瀬港・庭瀬往来」、道路に、でっかい「出合頭!」の字! (絵図は、撫川庭瀬城址周辺整備推進協議会・岡山市の法万寺川 (農業用水路)からの案内板より)

於可山道・道標(移設)

元の場所にあった道標は、道路拡幅のために撤去されたが、 保存されていた道標をここ庭瀬本町遊園地に移設し、元の場所近くに、説明板を設置した。(案内より)

天秤石・雁木

この天秤石は、平成19年10月旧庭瀬港の工事の為旧庭瀬港跡の外堀を浚渫した時、 常夜灯近くの外堀底から出てきたものである。 常夜灯の南100mくらいの所には、 庭瀬藩板倉家の米蔵(当時を偲ばせる米蔵は現在も残っている。)があったといわれている。 この天秤石は、米蔵の米を精米する時に使用されたのではないかと思われる。(本町町内会の案内板より)

旧庭瀬港(内港)と常夜灯

庭瀬は、近世まで足守川とその支流を利用した船運が盛んに行われており、地区内に張り巡らされた堀・水路を水運等に活用し、水郷のまちとして発展してきた歴史を有している。 さらに陣屋町を東西に貫く庭瀬往来(鴨方往来)は、近世山陽道とも結ばれていることから、陸路と水路の交わる交通の要地であったといえる。 1600年代中頃の寛文年間の絵図によれば、絵図の下方に描かれている足守川の河岸には、瀬戸内海を航行する船が出入りし、足守藩の年貢米の積出港としても重要な機能を有していた。 この河岸で積荷を海船から小船に積替えて旧庭瀬港(内港)に入る。そこには、港町が形成され、庭瀬藩の商業・交通の中心地として栄えた。 水路に面しては雁木(階段状の船着場)が設けられ、入港する船のため木造で大型の常夜灯が1700年代に建てられた。 明治24年に山陽鉄道(現在JRの山陽本線)が開通して以降は、船の往来も減少し、昭和30年代には水路も半分ほどの幅までに埋め立てられ、 また常夜灯も昭和29年の暴風により被害を被り、全て取り壊されたが、その基礎(地伏石)は原位置で保存されていた。 庭瀬・撫川地区の堀や水路による町割り、城跡や家屋の街並みの景観保全を目指す住民運動は、これまで活発に行われており、その盛り上がりを受けて、 当時の古写真や地元の方々の記憶を元に、埋め立てられていた旧庭瀬港(内港)を部分的に再現した。 また当時の常夜灯の石積護岸の一部と約3m四方の基礎(地伏石)を使用して常夜灯を再建し、当時の旧庭瀬港(内港)の景観を平成19年度に復元した。(案内板より・絵図も)

童謡のイス

こんな可愛らしいイスが♪
【左】あんたがたどこさ。 【真ん中】おちゃらか。 【右】げんこつやまのたぬきさん。

木門跡(閂のある木の門跡)

木門は江戸時代、城下町などの警備のため設けられたもので、夜間や緊急時に閉められて、出入りを制限していた。 庭瀬藩では、絵図などから庭瀬往来から川入、花尻、平野へ向かう道に設けられていた。 木門には通常、番所が附属しており、木門番が住み込んでいたが、庭瀬藩では絵図などに番所の記載は無く、詳細はわからない。 (案内板より)

常夜灯跡と法万寺川

写真の常夜灯は、撫川と庭瀬の境をなす境川の撫川寄り、北側橋詰めにあった。 最上部の宝珠を加えれば、地上総高4mに余る大きな常夜灯である。 軸石の三面に「吉備津宮」「文化二年乙丑九月吉旦」(1805年)「発起人橋本屋吉兵衛」の銘があり、 四段の台石の上段には「世話人 大黒屋」「栄講中」とある。(案内板より)

高札場

高札は江戸時代、幕府や藩の禁令などを板面に墨書きして、往来の行き来の多い所、 関所、橋の袂、町村の入口などの目立つ場所に掲示するもので、町村役人を管理に当たらせ、庶民に法の浸透を図らせた。 高札は、庭瀬往来の東西の陣屋町入口付近に設けられていた。明治6年(1873)新政府により高札は廃止された。(案内板より)

あれ?撮ったつもりが、案内板しか撮ってない(@@)!ショーック。

庭瀬城 2009.4.30記

撫川城へどうにか着いたもののアクセス&路地の狭さに大変だったので、 次の庭瀬城に駐車場があるのか分からなかったので、撫川城の駐車場へとめて、歩いていくことにした。 ゆっくり歩いて5分位だったけど、駐車スペースがある…。車で来ればよかった…と後悔(^^;) 清山神社から北へ少し歩いて行くと、旧庭瀬港や常夜灯が復元されていたり、 木門跡や高札場跡の説明板が立っているし、素敵な古い町並み、あちこちに残る堀を、堪能できてよかった♪ 見学後、撫川城へ戻り、また庭瀬城の前を車で通ったので、二度手間じゃん…と、本当に悔やまれた(^^;) ちなみに、上記でも書いたけれど、撫川城までのアクセスはとっても狭くて大変だったので、違うルートの方がいいかも。(でも、狭い路地は多い。) そういえば撫川城の説明板で、「撫川城跡と庭瀬城跡とに呼び分けられているが、もともとは一体の城だった…。」と。 そうだったのか。

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